第六章 「息苦しいアナーキズム」から足を洗え
第六章 「息苦しいアナーキズム」から足を洗え
【解説】この対談は『アナキズム』19号(2015年)に掲載されたものに加筆修正したものです。前の年がバクーニン生誕200周年だったので、『アナキズム』誌がバクーニン特集で、表紙もバクーニンで、タナカがロシアで開催された生誕200周年記念集会参加したことについて書いた報告も掲載されていました。しかし、前回話題になった映画『シュトゥルム・ウント・ドランクッ』を乱さんが見て、かなりひどかった、ということを言っていたので、だったらそのことについて対談をやろう、という話になりました。
『シュトゥルム・ウント・ドランクッ』については、アナーキストの人たちはギロチン社がテーマということで、かなり期待したと思います。ところが、できあがったらみたら、端にも棒にもかからないひどいしろもので、アナキズム誌編集委員の人たちは、現場の作業などはいうに及ばず経済的な支援もやっていた関係もあるのでしょうが、誰もまっとうな映画評を書かないので、いらぬおせっかいとは思いましたが、映画評のかわりに対談で詳細に、なぜ、この映画がつまらないのかを語りました。
そんな経緯もあり対談後のアナキズム誌編集委員の人たちからは、私たち対談者を指し「在特会」と同じ等の、おほめの言葉をいただきました。なんで私たちが在特会???と考えていくと、ようは私たちのやっていることは、アナーキストに対するヘイトであると(笑)。
次に特集がバクーニンだから、バクーニンについても話をしよう、ということになりました。それから、『アナキズム』誌がこれで最後になるんじゃないか、などという噂が伝わってきたので、そもそもこの対談がなんで『アナキズム』誌を批判してきたのか、ということをきちんと話したらどうか、ということになりました。のんきちさんから、『アナキズム』誌に集まっている人たちが言っている「アナーキズム」は「息苦しいアナーキズム」だから、いろいろと文句を言ってきたのだから、その話もやりたい、という意見があったので、全体のテーマが、表記通りになりました。(タ)
中坊から映画がとにかく好きで、それからン十年経るわけだけど、ここ二昔ほどは邦画のおもろいものに出会う機会が激減している。まず触手が動かない。で、既述のギロチン社をテーマとした『シュトゥルム・ウント・ドランクッ』が出来るというのでそこは期待もした。というのも鈴木清順が断念した企画を引き継いで創るという勘違いをしていたからだ。監督は寺山系列の人らしくて、その過去作を知ると、嫌な不安がよぎった。その世界線との異和感があったからだ。せめて有意な失敗作になつてくれという願いもはかなく。自分のシン・最低映画リストに記録される出来となった。しかしその失敗作に関わらず、アナ界はひたすら沈黙するばかり、三島由紀夫が変に映画化されると、関係者たちはお蔵入りさえさせる抗議をするというのにこのヘタレぶりはなんなんだと呆れ、せめて頂門の一針たらんと本鼎談ではディスらせてもらつた次第です。映画は元来、弱者、庶民の秘めた願望がかなうアナーキーな夢の道具。そこでは裁かれぬ権力や権威が死刑宣告を受けるシミュレーションが数限りなく繰り返され、観客個々の無意識は更新され、いつか現実に再現する機会を待つもの。映画はまだ終わっちゃいないのだ。(乱)
出席者【の】=小谷のん、【乱】=乱狡太郎、【タ】=タナカ
某ギロチン社映画をギロチンにかける
の 今回のテーマは、このあいだできなかった映画の話と、「息苦しいアナーキズム」について、それと、『アナキズム』誌の特集にあわせてバクーニンの話になるのだけど・・・乱君、あれ最近みたんやろ? 『シュトルム・ウント・ドランクッ』っていう映画。タナカさんはずっと前に見たって聞いたけど・・・。でも、「どんなやった?」って聞いた時に、何かいつもずっと口を濁していたから、「何やねんやろなあ?」と(笑)ずっと気にはなっとったけどね。
タ いや~、別に口を濁していたというか(笑)、「どんなんやった?」って聞かれても、なんていっていいかよくわからない映画なのですよね。
の じゃあよかったん?
タ 「よかった!」って答えられないのが大問題なのだけど(笑)。まず、何にも知らない人にいきなり見せてもわからないと思います。ストーリーが全体としてわからないから。シーンのひとつひとつは絵になっているところがあって、素人がやっている俳優が雰囲気ある、というところもある。ようするにパーツパーツでいいところがあっても全体としては、なんといっていいか・・・やっぱり口を濁してしまう(笑)。
の はなからみなかったのだけど、評判はどうなっているのかな、と思ってネットで検索して映画の感想を何件かみたんよ。そしたら、何件かはね「良かった」みたいに書いてあった。ただ、「主人公の意味がわからへん」みたいなのもあって。「それって、どういう意味なんかな」と思って。タナカさんも最初に見たあとで感想を聞いたとき、感想はっきり言えなかったからわからなかったけど。「映像的にはフランス映画みたいな感じ」って言っていたから、「ああダメなんやな、失敗やねんな」と思っていて。ようするに、「ストーリー的には全然分からへんかったんやなぁ」と。タナカさんとか乱君とかやったら、ギロチン社のこと詳しくわかっているやん、それでもわからへんというのはどういう映画なんやろうなあとかは思うよね。ほかで誰かほめていた人いたっけ?
タ 前の『アナキズム』誌18号が映画特集だったので、そこで映画評とかありましたっけ?
の 詩というか散文みたいな感じのがあったかなあ。映像的なところで褒めてあって。じゃあ、良いんかなとおもうたけど(注1)。
乱 そもそもアナーキズム云々の前に、映画としてダメなんよね(笑)。いやダメ映画には愛おしさを感じさせるのもあるからダメ映画とかでもないな。映画になってないから、そこが困ってしまう。タイトルのロゴ見ただけで不快になる。何かなあ・・・鳩時計的不快感がある。
の なんやの鳩時計的不快って(笑)。
乱 「第三の男」のセリフ(注2)が浮かんで、というのはウソだけど(笑)。鳩時計ってなんか鳥の巣箱や山小屋風でレトロ趣味なのだけど、一見凝ったデザインだけど精妙さにかけた愚劣なものがほとんどで、しかもあのけたたましい泣き声が脈絡なしにこっちの空間を引き裂いてきてイライラしてくる、あの映画も色々アナーキズムだのギロチン社だの寺山や演劇風、ボヘミアン風だったり色んなものが散りばめられてはいるけど、結局空虚で、何したいねん!と(笑)。
の アナーキズムと映画をイコールにし過ぎたからそうなったのかな。それに、アナーキストの人はアナーキズム的映画というので協力したり、色々やったりしたんやと思うけど、実は、そういうのに関係なく、もっと客観的に見てちゃんとした評価しろよ、っていうところが、ぼくなんかにはあるんよ。映像がきれいとか、そういうのはわからんことはないけど、何かあんまりにも場当たり的にほめているような気がせんでもないし、誰かひとりぐらい、「あの映画とんでもねぇなと言う奴おらへんのかなと思うねんけどね。
乱 映像がいいとかきれいなのは、なんぼでもあるから(笑)。あの程度で言ってほしくないな。単に映像が良い箇所もある、というだけ、ポストに投函されているマンションのチラシなんか見てもプロの写真で美しいと思うのはあるわけで、それが映画として表現できているということじゃないかなあ?
の ぼくが一番嫌やったのは、歴史的にねじ曲げて作っている、っていうとこ。そらノンフィクションなんてありえへんから、完璧な。それはかまへんのだけど、なんか、あまりにもちょっと違うのかなと。「これじゃないやろ」感がすごかったので、一気にさめてしまったというのが。なんであんな脚本になっているのかな?なんていうか「えーっ」っていうような、そういうわけのわからん設定自体聞いた時に一気にこの映画を見る気うせるんよ。歴史に忠実に、っていうことなんか、ぼくみたいな映画の素人かて、そこまで思ってるわけじゃないやん。でも、女テロリスト出すのだったらそれなりに、意味ははっきりしてほしいよね。
タ たしかに、あの映画、見ていてわからなかったのは、いつも出てくるあの女性です。あの人が関係ないのに出てきていて。あの人はフィクションですね。何であの人がいるかな? 彼女の必然性がぼくは全然わかんなかった。
の 主人公なん?
タ 主人公の身代わりみたいなものでしょうか。多分幽霊なのですけど。何にも知らない人が見たら全然わからないでしょう。ストーリーの説明もないから。ぼくはまあ、知っていたからストーリーを自分の中でつなげながら見ていたけど、知らない人が見たらどうかなあ。
乱 だからね、要するに、映画じゃないってことですよ、あれは。
の あはは、さっきも言ったけど、「映画じゃない」って、どういうこと?
乱 いやそのままだよ。映画のなりそこねってこと。無意味無内容な連続画像があるだけで。主人公の女性についてはね、緋牡丹博徒のお竜さん、矢野竜子みたいにやってくれっていう設定があったらしいけど。あのエミル(注3)とかのどこをどう観たらお竜さんになるのよ? 100均で売っているカッターを『備前長船』と言っているようなもの(笑)(注4)。おまけにそのお竜さんモドキが「幽霊」って・・・わけわからなすぎ。
の 乱君は映画バカだけど、今まで観た映画でもこんなのなかったの?
乱 ふと似たのがあったこと思い出した。『死霊の盆踊り』って最低映画(注5)。これもヒロインが幽霊だったな。
の ええ!?そんなに酷いのか(笑)。
タ お竜さんがひとつのモデルだということ、どこかで書いていましたね、そういえば(注6)。
乱 もともとはそういう設定らしくて、なんでもさらにそれを乗り越えるなどということも構想にはあったらしいのだけど、『緋牡丹博徒』は、底に流れる虚無感、孤高を貫き、石臼で引きつぶされる弱い者へせめてもの義理人情を袂に入れて絶望的な闘いへと臨む矢野竜子が主人公でしょ。スカスカの書割監督にはどだい無理。
の もともと脚本は誰が書いたの?
乱 さっき名前の出ていた高野さんという方です。
の なんでそんな架空の主人公がいる設定になっていんの? あの設定があるからいきなり見る気なくしてしまう、っていうのがまずあるんですよね。
乱 っていうか、そもそもフィクションどころか幽霊が主人公の映像詩って、霧の中に全編ボカシの入ったような映画(注7)。しかも内容が不発のテロのお話だから、何がしたいのやら言いたいのやらサッパリわからんようになるのも当然かなと思える。
タ ああ、そういうことか。なるほどー。
乱 テロが不発なのは元ネタからしてそうだけど、不発を描く前にその描写がまず不発だから(笑)。「南天堂」の撮影現場では「フェリーニ! フェリーニ!」とか言っていたんで、『道化師』か『アマルコルド』(注8)、はたまたエミール・クストリッツァの『アンダーグランド』か『黒猫・白猫』(注9)ばりのオルギー炸裂!(注10)バカ騒ぎや大どんちゃん騒ぎが延々と続き、最後は坂東妻三郎の『雄呂血』か『逆流』、『浪人街』(注11)ばりにアモック(注12)で〆るみたいな・・・こともなく、サッサカサと終わっちゃってね。
の ぼく、予告編しか見ていないんだけど、映像的には確かに綺麗っぽいかなーっておもうたんよ。でも、ストーリー的には全然ダメなの?
乱 論外。どんな映画でもストーリーなりコンセプトなりの骨が通ってないとね。映画は世界構築やから。この監督は映画完成して台本を寺山修司の墓にもって行ったとか言うているんやけどギロチン社とどう関係してくるねんと思って。それなら寺山を題材にして映画撮りゃあエエやん、何考えていんねん。言っていることいちいち腹が立つ(笑)。そのくせ「私は政治性のあるものに対しては全然興味がないというか・・・」(注13)とかなんとか言いつつ、主役の女優に「人を殺したいって思ったことありますか?」とか尋ねて、これがまた彼女が「あります。何度でもあります」とか言ったそうでね。バカげている。
の 「人を殺したいって思ったことありますか」ってどういうこと?
乱 さあ、テロリストを演じさせるからかな。パンフによると「映画終わって10年経っても20年経っても100年経っても残るようなもの」(注14)、てことで、世界遺産みたいなことは言ってはるけどね(笑)。ちゃうやろ、今観ている観客の心掴むのが先やろ。第一そんなガチのヒットマンやテロリズムを追求していんのこの映画?・・・
の それとアナーキズムに何の関わりがある? 人殺すっていう。
乱 ないよ。あるとしたらテロリズムの方。
タ 「バクーニンはこう言った」みたいなことを誰かが話す場面があるのです。あのセリフがあると、ぼくたちには、ああ、アナーキストなのだな、ってわかるけど、普通の人が見たら絶対わからない。だからアナーキズムを知らない人が見てもアナーキズムと関係がある映画なんだ、って理解するのが難しい。
の 監督は最初っから最後までアナーキズムと関係がゼロなんやろか。
乱 永遠に「0」やね(笑)。だけどギロチン社を描くということは、やはりアナーキズムと関係していくわけでね。まして業界の人たちと関係して創っているわけだから。
あの映画、アナーキズムと関係あったの?
の 監督にとってアナーキズムなんてどうでもエエ、ってことかな?
乱 そうなんだけどね。国家に反逆した人たちがグループ組んでいて、テロを計画して失敗してケーサツにパクられて・・・そこさえきちんと映像化出来てれば、アナーキズムが何かわからなくても最低限わかるやん。
タ いやー、ふつうの人には、それさえ、あの映画ではわかんないでしょうねえ。
乱 そういうわかりやすさをあえてひねっているのでしょうけど、映像詩の部分は観客がフリーで連想するしかない。日常はとりとめのない会話のやりとりがダラダラ続いて、エピソードも断片的で、そんなことやっていて、音とかは凝っているんだけどね。
の 何の意図があってそんなんしたん?
乱 わからん。「ギロチン社の日常を描く」っていうシナリオで映画撮っているけど、日常ってどれだっけ、幽霊とか出しながら(笑)。それなのに、リアリズム追求している、っていうのやけども、わけわからん。短刀は真剣を持たした、と言っているんよ(注15)。第一テロリストの日常って、市井の人たちとは転倒して、非日常が日常化している日々なのと違うのかなあ。
の 真剣だったらリアリズムなん?
乱 違うやろ。だから、どういう考えで映画作りたかったんか、さっぱりわからんよね。
の 結局、乱君から見たら、この映画、だめってことなん?ええとこないの?
乱 大失敗だね。普通の映画としても、観るべきとこが全くない。観直したいとも思わないのでスッキリするけどね(笑)。そこは良い。後一箇所、福田大将が「あんな奴に権力が倒せるものか!」とか言うて。そら、そうだろうと、この映画じゃ無理やろ(笑)。あれは妙に納得した。
の でもね、こうやって話していて、何かね、映画の話しもそうやけど、えらく言いにくいでしょ。おもしろくないのを「おもしろくない」と言ったりするのが。そこが問題なんかなあと思うんよ。結局、翼賛体制、北朝鮮みたいな感じやったり、戦時中みたいやんか。言えないやん。もちろんこの映画に協力している人一杯いるからね、この界隈で。だから言いにくい、っていうのはあるけど、おもしろくないのを「おもしろくない」と言えへんというのはどうなんかなと思うのよ。黙ってしまうか、無理からでどっか影でこそこそ、みたいなことしかないというのも問題なんかなと。そこが息苦しい。
タ 言葉を濁してきた私も、ずいぶん息苦しくなりました(笑)。
乱 きっちり映画を観ているなと思える人のブログで、やはり「映画になってない」「幻想的な映像詩的な映画を自分は嫌いじゃない。うまくやればちゃんとしたものになったかもしれない。でも、残念ながらこれはできてない」と評価していたな。妥当な意見だなと思ったよ。
タ そういえば、あの女の人が蕎麦屋をやっているみたいで、蕎麦の岡持持ってウロウロしているんですよ。それもよくわかんなくて。
乱 僕も岡持が妙に気になってね(笑)。作ったばっかりで白木のまっさらなやつ使っていたやん。まあ存在しない女の持ち物だから白木? あるいは棺おけ=死のメタファーかな。古の例に倣って蕎麦屋=仇討ちか、いずれにしてもあの厚ぼったい肉体を持つ幽霊に白木の岡持ちの組み合わせは合ってない。
タ それから、テロも失敗続きというところが強調されていて、お笑いか単なるエピソードみたいになっている。でもあの女性は最後にテロを決行する。わからないんですよね。
乱 ギロチン社がさんざんテロに失敗したというのは良く知られているけど、それがどういうことかを描くのがポイントでしょ。なぜ失敗していったのか。そこに意味がある。
の そうやな。
乱 それを描こうと思ったら、彼らに圧力かけている外部の世界は幻想的ではなくもっと凍りつくような世界として描かないとね。
の そういうふうじゃないの?
乱 古田、村木の逮捕シーンで、映画では、夜中に「電報です!」とか官憲が言うとさ、出ているのよ無造作にパッと(笑)。ハァ?まさか?と思ってね、常在戦場(注16)だよね。とっさに逃げるとか攻撃に備えるとかするのが常道。ところが、パ~ッと戸あけて一網打尽でつかまっちゃう(注17)。
タ 夜中に誰か来たら出ませんよね(笑)。そう思わせるぐらいなので、あの場面でリアリティーを感じることができないのは、どうしてでしょうね。史実をもとにした場面なのに。
の 「人殺せるか?」ってみたいなこと監督が尋ねている、って言ったやん。誤解があるのとちゃうん? アナーキストは人を殺す、みたいな。爆弾持って、行為の宣伝派みたいなアナーキズムのイメージを徹底させようと思ってたんかも知れへんけど。でも、それ自体意味をなしていないやん。
乱 まあ、そんなアナーキズムを表現する上でそれが偏っているとかだったらまだ良いのだけどね。
タ あと、長すぎるのも問題かもと思いました。というか、長いところが、だれているような感じで。
乱 演出がなかったので、個々の役者さんは頑張ったんだと思うけどね。演出がないなら役者自らなんとかしようと、現地調達で(笑)。
の 現地調達ってなによ・・・旧帝国陸軍やないんやから(笑)。
乱 現地調達ですよ。各自が現場で各々やらざるを得ない(注18)。それは良いとしても、それを構成するのは監督の仕事だと思うけど、それがない。だから俳優達も餓えて野垂れ死にするしかないわけです。
タ 素人の人がいっぱい出ていましたけど、現地調達だったら大変だったでしょうね。
乱 そうやね、プロの人ならそれなりには収めるだろうけど、黒澤明も素人俳優をよく使ったけど苦労したみたいだし。しかし素人起用の場合、きっちり監督が演出しないとだめでしょう。
タ 演出がないっていうのは、どのシーンが一番よくわかりましたか?
乱 門の前のシーンかな。刑事役の人、動く前は良かったのですよ。アナーキストが来るでしょ。出会いがしらになって、「エ?」とか言って戸惑ってしまって。あれは演じている本人が戸惑っているのや。単純に、「どない言おう」と。そんなのそのまま撮るなよと思って。あれは手前の段階で、監督が何か指示してやるとか、セリフで言わなくてもいいようにすれば形になっていたと思う。役者に無理にアドリブでせえとか。ほんで、どうしょうもないから、役者も「あ」とか言いかけて。でも、それは演技とかじゃないし、ふいに出くわしたからじゃなくて、役者個人の困り方が出ているだけで。それまでは雰囲気は良かったなと思っていたけど、動かしたら途端に素になっちゃっていた。あんなムチャクチャなの役者が可哀想や。
タ 演出がなかったからああなったのか。
乱 演出がない。演出せんでいいでしょう、と監督が言ってたんやけど(注19)、何を言っているんや(笑)。
の 監督がひどいんや。
乱 ハイひどい、ひど過ぎます。
の アハハハ。
乱 パンフレットみたら、この監督、みんながわかってやってるようなこと言っている。
の アナーキズム側からの要請みたいなとこがあるから、そう言うたけど、ほんとのところ、監督の意図としては、アナーキズムはどうだっていい、ギロチン社もどうでもいいというわけじゃないの?
乱 アナーキズムやギロチン社を抜いて彼らテロリストを題材に映画を作ることはもっと難しいでしょ。テロリストは職業じゃないのだから。あの監督は「人」が描けない人やと思うよ。アート系の映画ばかり撮っていたみたいで、そんなのにあんな生々しい血と肉の匂いのするテロ、ギロチン社の題材は無理でしょ。
の ネットではあの監督の久々のやつやから、えらいよかった、みたいに書く人もおったから、へえそうなんやと思って。
乱 ハァ? それは自由にすれば良いけど、あれで満足できるならそれはそれで幸せかなあ。
の ハハハハ! とことんダメな映画みたいやね。
乱 いや元々ギロチン社のテロがダメ過ぎるのだけどね。それをダメなシナリオだったり、ダメな監督では表現できないという二重苦があるのよ。成功したテロなら、バンと拳銃を撃って、相手が倒れたら一応、それで話はまとまる。失敗するんだよ。自分が失敗した理由を人に伝えようとしてもそれがどだけ難しいかわかるでしょうに。
タ それから、ギロチン社の面々がダメダメな人たちとして描かれて、鬼気迫るというか迫真というか、そういうものがあんまりなかったですね。当時の彼らが本当にいろいろ大変なのだな、と思えるところがない。そういう感じが、みたあとで残らない。何にも知らない人は、そこまでじゃないかなあ。
の アナーキズムと関係なく見ている人が大半やと思うけど、そういう人たちのネット評は、「良かった」と書いてあるけどね。
タ 絵がきれいでした。だから、それぞれのシーンはいいのですよ、ストーリーとは関係なく。シーンを絵としてみればいいとこあるのですよ。それから素人の俳優であっても、本当にそういう人いたのだろうなと思えるところはあった。古田とかああいう人。ただね、たとえば、この前ね『悪童日記』を見たのですよ、アゴタ・クリストフ原作の。あれは、良かったですね(注20)。子どもの役がすごく上手い。それに、セリフじゃないのですよ。言葉は部分的なのです。表情がすごいのですよ。もともと原作が、言葉が少ないからだけど。でも、映画ってこうなのだなあと思った。原作と違うから、そこ批判する人いるのだけど、監督は作者と話をしながら作ったから、どうすればリアルになるかと、どうすれば人間のものすごさが出てくるかをわかっているんだなと思って。あれとくらべるとやっぱり・・・。
の ただ、たとえばこの対談が『アナキズム』誌に載ったときに、反論としては、低予算だから仕方がない、とかそういう話になると思うのやけど、その辺はどうなん?
乱 いやいや、そんなことないよ。前も言ったかな? 『大拳銃』(注21)という映画、わずか30分の映画で、町の小さな鉄工所で密造拳銃を造る話だけどとても素敵でアナーキーな映画。お金じゃない見本ですよ。
タ やっぱり問題なのは、村木とかが集まっていろんなことをしているのに、もう一方で主人公? の女性が前面に出てきちゃうところかなと思います。そうすると、その男たちが本来やっていたことがわからなくなる。そうして、何やっていたんだかよくわかんないうち捕まっちゃって、それで死んじゃった、みたいな話に見えてくるんじゃないか、と思いましたね。
乱 だから個々人の性格がきちっと描けてない。短いやり取りの場面の中であっても、「この人はこういう人やなあ」っていうのがわからへん(注22)。
の でも、予算がないから結構苦労したとかあるのとちゃうん?
タ 本物の軍服を使ったとかどうかとか。あと、古い民家を探して何とか借りて、そこでの撮影に苦労したという話を聞きました。車の音がするでしょ? だから、信号で車が止まった時にパッと撮るみたいな。
乱 いやあ、そんな苦労話は、映画製作には珍しい話でもないよ。一方で南天堂はライブハウスそのまま使って、チープな装飾でやっていて、一方でリアル感求めて古民家探すとか、本物の軍服とかなんかよくわからんな。そういう表層にエネルギーを注ぎ過ぎているから、中身が空洞化してくるのと違う? そんなことどうだっていいやん。低予算映画は、観客のイマジネーショで補えるようにすれば良いだけ。
の リアリズムの追及ってこと?
乱 それもないよ。溝口健二の原寸大主義の方向とも違うし(注23)。あの古家、アジトにしては不自然なアジトやったな。ミュージシャンが田舎で合宿しているみたいな。で最後にあるでしょ、一人一人カーテンコールみたいな。あれ観て思わず苦笑してしまった。あれもしっかり映画が作られていたらやってもいいんだけど、人物描写が不明瞭ななかで挨拶されてもねえ、監督のナルシシズムにつき合わされたくないな(笑)。
タ たしかに、必死さとか、さっきいった鬼気迫るものが伝わってきませんね、ああいうことやっちゃうと。
乱 リアルな世界、今の我々の世界だけど、それこそかの地ではテロリストが跳梁跋扈して様々な事件を引き起こしているわけで、それは圧倒的なグローバリズムや暴政と対になる形で現われていて、そんな世界にあってこちらも首がジワジワ締め付けられつつあるのを実感しているわけでしょ。ギロチン社をどう観るかは色々あると思うけど、今日的テーマとして観ているものを引きつけることは可能だと思うけど。
タ 制作者サイドとしては、たぶんそういうテーマの現代性ということは考えているのですよ。今の閉塞した時代の若者と似ているというので。
乱 あんな懐古趣味が現代性?結びつかんでしょ、しかもわけわからんテロリストと重たそうな幽霊女出してきて(笑)。なんか酸欠状態になってきたわ。
の わー、これ以上話したら殺されるわ。次のテーマいこ! 「息苦しいアナーキズム」や!
タ それも「殺される」テーマでは・・・?
「息苦しいアナーキズム」ってどんなの?
の 乱君とかの映画に対する批判はわかるんやけど。でも、何でみんなそういうふうに言えへんのかな。そこがぼく、一番アナーキズムの問題なのかなと思っている。息苦しい。ぼくらがこんなん言うたら、「なに言うてやがるねん!」みたいな、「しらんくせに!」とか、そういうふうな話になるでしょ? それが嫌。翼賛体勢、大本営体制みたいなところでやられていく、というのが息苦しいなあと思う。これホンマに対談でのせてもらえるかどうかわかれへんけど、こんなこと言ってしまうと。
タ まあ、いいんじゃないですか(笑)。
の いいのだけどね。ここが一番息苦しいんよ、ぼくたちがこれまで関わってきたアナーキズムで。アナーキズムの問題としては、そんなのも言えるのがアナーキズムちゃうの? そこを勘違いして、「言うたらダメ」やみたいな、口をふさぐような。問題の本質的なこと言ってしまうと。
タ そういうの、昔からあったのですか?たとえばベテランの人たちとかを批判すると、「やめとけ」とか、そういうこと言われたとか・・・。
の ある。それある。年上のだれそれの、たとえば、向井さん批判なんてしにくかったやんか、大阪で、関西では。昔、乱君とかが言い出したから、今はそういうふうなことも言えているけど。当時、言うのは、なかなか大変だったやん。言いにくかったよね?
乱 そうそう。
の 結構怒られるし。
乱 『自由意志』で「全てのアナキストよ、今こそアナキズムの軛を脱して自由になろう。」とか書いたらからね(笑)。
タ 『自由意志』(注24)で?
の そう『自由意志』で乱君とかが、「アナキズムはヤクザな思想」(注25)とか書いたんで、メチャメチャ怒られたりしているやん(笑)。
タ その反応ってけっこう繊細な人のですよね?
乱 ちょっとナイーブすぎるかなって、国家に反逆するぐらいだから海千山千の猛者で、ガキが何いうとるねん、みたいな風に返ってくると思っていたのだけどね。元々こちらは反論してほしかっただけ。何も知らんやつと上から目線で言えばよいだけで・・・。
タ ほんとにヤクザだったら何にも言わずに刺しにきますよね(笑)。
の そういうのがずっと今まであって、現状もそうと違うかな、と思うわ。アナーキズムって自由と思ったのに、言っちゃいけないことがあったりして。それなんやろな?といつも疑問に思っている。
タ ベテランの人から直接怒られたとか、そういうことあったのですか?
の そういうのは、なかったかなあ。よく怒っていたのは、ベテラン以外の人かな。
タ じゃあ、べつに古参のアナーキストが権力ふりまわしていたわけでもなさそうですねえ・・・そうか、じゃあね、こういうたとえじゃないですか。家族のなかで、お父さんがすごく弱い家。
の お父さんが古参のアナーキストっていう設定やね。
タ そうです。それで、他の家族のメンバーが、お父さんを怒れない、みたいな(笑)。
乱 すごい気をつかって?(笑)。
タ 「お父さん弱いから怒れないな」とか、奥さんとか子どもがそういうことを考えて、「家族の中でお父さんのことを悪く言わないようにしよう」という規則ができる、みたいな。
乱 家族ぐるみの「親父補完計画」ですか? 「気持ち悪い・・・」って(注26)。こんなん日本のどこかしこに転がっている風景やね。職場でもどこでも父親や母親がいている(注27)。しょーもない。アナーキズムは、天皇みたいな王族はもちろん、なんとかのリーダーやカリスマ、主人、権力者を基本どうぶっ殺すかのスメルジャコフ(注28)の思想でしょ。それが父親作ってどうするの?
タ でも、現実どうかというと、お父さんはすごく弱い人。そうすると、お父さんを神格化するとか、あるいは、すごく弱い人なのだけど「実は強い人だ」とか、「あの時強かった」とか、そういう伝説みたいなはなし作っていく。で、口が裂けても「弱い」って言えない。
の たしかにレジェンドしちゃっているところはあるかな。大体、「レジェンド的に大杉はすごい」とか、そういうのがあったりするのとちゃうん?
タ それはそうかも。
の でも、向井さんも亡くなったら、すごいとこばっかりクローズアップされたりしているやん。すごかったかもしれないしすごくなかったかもしれない。でも正当な評価はしない。特にアナーキストは。それが問題かなと思う。ダメなとこ言ったらいいやん。ぼく、辻潤好きやけど、ダメやなあと思うとこ一杯あるから言うし、あいつダメやったやん、とか。でも、みんな、そこを言えないやろ?
乱 向井さんに関しては、会って話してみてなんか嘘くさい人やなって直観的に感じた(注29)。これが合っているかどうかはしらん。向井さんの反天皇制でもアナーキズムでもやっていることは一見おもしろそうなのになんか引かれることがなかった。なんか外部のない人に思えた。
の 外部のない人って何よ。
乱 この人だけで自己完結しているってことかな・・・あるいはmindless。アナーキズムとかかっこよく言葉で纏めてみても、人間の業とか、ドロドロした欲望とか、これまで人類がやってきた数々のゲスで鬼畜な歴史の積み重ね、そういうのをひっくるめて表現できんとあかんのと違う? 他のイデオロギーは知らんけど、アナーキズムからそれをはずしたら、アナーキズムの意味ないよ。それやったら普通のよくある憑かれたイデオロギー。アナーキズムの場合は。ダメなんやけどね、ダメなところを否定も肯定も含めて認める考え方なのですよ。
タ そういうふうに「私はダメです」って認めたくないから怒るのですよね?
の まあ、そうだろうね。
タ 大沢、秋山、向井の大御所は全然批判されないでしょ?
の 大沢はあまりよくしらないけど、あの人も矛盾したことよう書いているよね(注30)。
乱 本人たちが善人だろうが嘘つきで裏切り者だろうが、それで本人生きているわけで赤の他人のぼくとしてはどうでもいいの。リアルに関係性があって一緒に組んで何かをするのであれば、当然対立が起こり解決が必要になるかもしれないけど。でもアナーキズムという思想について考えるときは、そんなこんなもひっくるめて考えないと、レジェンドとか言って賛美していたらネトウヨとかサヨクとか同じってこと。反対に単にディスりたいわけでもない。
タ 60年代か70年代、若い世代が大沢さんや向井さんとか上の世代を殴ったとか殴らなかったとかあったでしょう。そういうのは何だったんでしょうね。
乱 造反有理リターン?・・・まさかね(笑)。生徒が先生殴るのやったらまだわかるけど・・・チンピラでもそんなことしないでしょ。興味ないな。
タ レジェンドっていうのは、大逆事件の集会とか大杉栄の墓前祭とかが強めているかも。ただ、ああいうのは、国家に対する抗議という運動的な意味はあると思うのですが。でも、「コスモス忌」って秋山さんの命日かなんかに集まっているでしょ? 向井さんの「なんとか忌」なんていうのは聞いたことないし。「辻潤をしのぶ会」とかないですよね(笑)。
の 辻の何回忌とか、そんなん、成立せえへんやろ(笑)。
乱 歌の文句じゃないけど、墓には誰もいないよ(笑)。
タ なんで秋山さんだけ?って思います。やっぱりレジェンドなり神格化なのでしょうか。
の 戦時中の秋山について乱君が前も批判していたよね。
乱 僕が?あの偉大な「抵抗詩人」の秋山先生をですか?そんな・・・恐れ多い(笑)。あの高村光太郎を大喝した人ですよ(注31)。
の 何ボケたことを。
乱 失礼しました(笑)。他にも転向研究で、アナーキストの批判もしていたよ(注32)。だけどご本人は名前を変えて戦争協力(注33)していたんだけどね、詩では協力しとらんということかな。この人、前ちょっと読んだのやけど、中里介山の批判もしているんだけどね。
の へえ!? 秋山が?
乱 秋山が言うには、中里介山は、あんな「大菩薩峠」書いていても彼自身はニヒリストじゃないゾわしゃ騙されんぞと言ってね(注34)。その根拠として、『東京日々新聞』に「大菩薩峠」が連載されているときに、石井鶴三の挿絵があったんだけど、その石井が挿絵の画集を出そうとしたら、中里介山が、挿絵も『大菩薩峠』に付属したものだから著作権の侵害だと言ったらしい(注35)。秋山にしたら、ニヒリストの正体みたりとばかりに、また、ねちねち言うんのよ、いやらしく(笑)(注36)。批判はあっていいのだけど、秋山が知的所有権保護論者ならまだわかるけど、介山個人の「似非ニヒリスト」ぶりを明らかにしてみせるって何やろね、嫉妬かな、もっと黒い動機で、それとも非転向の介山への己の後ろ暗さかな。
タ 何年ぐらいに書いたものなの?
乱 70年代にでた『わが心のバック・ミュージック』というエッセイを集めたやつ。読んだらいきなり、ねちねちねちねち(笑)。うっとうしいな、こいつはー、と思った(笑)。
タ でも、秋山さんの影響ってやっぱりあるような気がします。たとえば、「アナキズム」っていう表記が日本ではよく使われているでしょ。その起源は、秋山さんなのかもしれません。最近教えてもらったのですが、1960年代、秋山さんは、アナーキズムを否定的に論じる作家や知識人が「アナーキズム」というふうに「ナー」って伸ばす表記を使う、自分は否定的な言論にいちいち反応するのがいやになったから、「アナキスト」と書くんだ、という趣旨のことを書いています(注37)。で、私自身は、ちょっと理由があって「アナーキズム」っていう表記を使っているのですが、ときどき、「アナキズムって書かないのはどうしてですか?」って聞いてくる人がいるのです。「アナキズム」が標準だと思っている人がけっこういるんです。
の 秋山さんが言ったからみんなそう思っているの?
タ それはよくわかんない。でも、どう書くかは人の勝手ですよね。戦前の大杉とかいろんな人たちの表記を見たら、「アナルシスト」とか「アナルキスト」とか、本当に多種多様で、「正しい」表記とか、誰かが言っているからこういう表記にする、なんてなかったと思います。
の スペイン語ではアナルキストやな。
タ エスペラントもそれに近いのじゃないのですか? フランス語では「アナルシスト」、ドイツ語は「アナルヒスト」。戦前だと「無政府主義者」が多いですけど、別に統一なんてしてないんですよね。
の もし秋山の影響やったら権威化やね。
タ そこのところはわかんないですが、なぜか戦後は、「アナキズム」「アナキスト」という表記が多いですから、やっぱりなんかあったのかなあ、と思います。おおかたの人は、なんでそれが「正しい」のかわからないまま、何となく「正しい」と思って使っているのかもしれないですね。
乱 要は、アベみたく「これからはアナキズムと表記する」と「閣議決定」したから、みんなが「忖度」しだして使うようになったわけやな(笑)。なんや書き方で相手との関係を切断するとか、そういうこともうっとうしいよね。
の うっとうしい、馬鹿馬鹿しい。たとえばね、アナーキズムの権威、反権威、反なんとか、っていう、そういうアンチなとことか的な部分でいこう、みたいなところ、全部が息苦しい感じがするよね。
タ 党派的なのでしょうかね、やっぱり。秋山さんも、敵対する人と自分を切断するために、伸ばさない「アナキズム」っていう表記を使うって書いているけど、それは日本語で通用するけど、フランス語やドイツ語では通用しないでしょ。実際は批判する人と延々と闘っていかなくちゃいけない。表記じゃなくて中身で闘わないといけない。だったら、うんざりしようがへとへとになろうが、本質的なところで、そうじゃないのだっていうことを相手に伝え続けることになりますよね。
の 話を戻すとね、乱君とかが『自由意志』書いてメチャメチャ大島さんとか激怒させたことあるやん? そういうのに何で怒るのかな、別にいいんやと思うねんけど、書きたいこと、なんで書かせないようにするのかなと、いつも思うねん。現状もそうでしょ。ぼくら、アナーキズムの批判みたいなこと、だいぶん前の対談で書いたら、批判の批判みたいなのが結構あるし。なんやろね? いわゆる自民党的な民主主義よりもまだエグい。
タ そこは共産党的なのですかね。まあ、自民党かもしれないけど。
の そうそうそう。
乱 そうやね、党派的な部分。イヤ、今ならアベ的か。
の 綱領主義派のアナーキズム好きな人もおるでしょ? なんなん?
タ 好きな人いるのですか?
の いているよ。なにがいいのやろと悩むわ。
タ 20世紀のアナーキストはずっと共産党と闘ってきて、そうやって相手を意識する中で、相手に似てしまった、って向井さんが書いているので(注38)、そういうこともあるのでしょか。社民や共産党と闘ってくるなかで、自分の勢力をいかに維持するかとか、自分がいかに正しいかということばかり気になるでしょ。いつも社民と共産党から「アナーキズムなんてええかげんな考えや」ってめちゃくちゃ言われるから、その都度「いいえ、きちんとしていますよ」って反論してきたから。
乱 「おまえの母さんでべそ」って、由緒正しい罵詈雑言あるやん(笑)。そう言われて、「でべそじゃないもん!」って言い返す子どもみたい。
の 事実だったら、「そのとおり!」って認めたらええだけちゃうの。
乱 わからへんかったら、「今度母と愛し合ったとき確認します」とか(笑)。
の キショイこというなよ!
乱 でなければ、死んでからかな。
タ ・・・ええっとー(笑)、ようするに、これ以上いじめられないために相手に反論するわけですよ。「アナーキズムなんて、中身なんもなくってグニャグニャやんけ」とか言われたら「そうじゃないんだ、こっちだってきちんといろいろあってカチカチだ」みたいに言い返せるから。
の 「カチカチ」って(笑)。何があるの?きちんと「ある」というのは?
タ たとえば、こういう理想社会をめざしているとか。
の それがダメなん違う?
タ 本当はそうだけど。でも、アナーキズムを知らない人とかがよく質問するじゃないですか。「アナーキズム? 政府がなくなったらアナーキストはどうするんですか?」「だって、共産党だったらこういう社会作るとか言うけど、アナーキストはなんだかわからないじゃないですか」とか。
乱 そんなん「俺に言われても知りまへんがな」って答えればいいだけのこと(笑)。
タ でも、ムキになって、「いや、ちゃんとあるんだ」みたいなことを言うわけです。「共産主義よりアナーキズムのほうがいいのだ」「クロポトキンがどうのこうの、スペインではどうのこうの」とか言って。
の ぼくね、社会自体くだらねえと思うのよ。革命後のアナーキズムなんて全然嫌やし。もちろん、現状も嫌やけど。社会自体がウザいという考え方もある。それでいいのと違うのかなと思うのよ。ひとつの理想を作るでしょ? 革命後の社会、アナーキズム社会みたいな。それもウゼぇやん。なんでみんなそういうふうに言わないのかな、と思って。誰かのイデオロギーに染まるのが嫌なのがアナーキズムじゃないんかなと思って・・・。
タ 自分が人の言うことで左右されているな、と思ったときに、嫌だなと思う、というのもアナーキズムかもしれないですね。
の 権力がなくなれば全てうまくいくと思うのが大間違いでしょ? そこのところを考えないと。そういうこと放置していると、「こんなアナーキズム批判みたいなの言うたらアカン」みたいなふうになってしまうのと違うかな?
乱 誰かにとっては理想や天国でも、他人から見たら地獄に見えて当たり前やもんね。批判や疑問に対して向き合って答えないなら、首チョンパしかないわけでね。めんどくさいから「イスラム国」にならって「アナキズム国」でも作りますか。 安倍とか櫻井よしことか片っ端から首チョンパしちゃって・・・アカンわ、我々も首チョンパやな(笑)。
の アナーキストが国つくってどうすんのよ!
アナーキズムってそもそもなんやろ?
乱 もうひとつね、こういう話をする場合、アナーキズムの起源を考えるのも必要かなと。そもそもアナーキズムって、人間の肉体というか、そういうとこから生み出されたものが起源じゃないか、と。それがイデオロギーとして記述された時は、いろんなバリエーションがでてくるけど。でもその起源というのは、人間の体というか、身から、あるいは存在から出たものじゃないか、と僕は思っているんよ。起源といっても、それも言語化されたひとつのフィクションになるのかもしれないけど、そこのところをしっかり言っていくことが大事かなと思って。みんなアナーキストに惹かれるのは、「おかしい」とか「これは違う」と思った時に、アナーキズムを実践したり思想化したりしている先人にふれて、「ああこれだ」と思う。だから、初めに言葉ありきじゃなく、やっぱり体質いうか人間が持っているなにかに起源があるんやないかって思う。
の いや、ぼくは言語からきていると思う。いや、言うてることはわかるよ。フィーリングみたいなところのアナーキズムやろ? じゃなくてぼくはね、懐疑するのがアナーキズムとちゃうんかなあと思って。つまりひとつのイデオロギーに染まったら、「これが絶対正しい」と思うやん、みんな。でも、そうじゃなくて、「これ本当に正しいのかな」というのをずっと懐疑しながらいくのがアナーキズムなんかなと。
乱 イデオロギーを懐疑するというのは、その通りで賛成なんやけど、なんかそれ以前のこう、もっと直観的なものがあるのやない?
の 直感・・・かなあ、ちょっとわかんない。直感と言ってしまうとなんでもありになってしまう。
乱 たとえばね、テロに行って誰かを暗殺しようとする。でも準備万端さて実行となって現場に行ったら子どもがいた。「ああアカンわ、子どもがいるから、テロに巻き込んだらあかん・・・」って思うやろ(注39)。
の そこは懐疑しているわけでしょ?
乱 いや、懐疑やない。その子どもを避けるという瞬間的、反射的な判断と行為じゃないの?
の 間違っているからかもしれんからやろ?このテロが。
乱 テロが正しいか間違っているかを、イズムに基づいて検証したり懐疑するいうより、第一そんな余裕もないし、イデオロギーより優先するものが咄嗟に出てくるのと違うかな。
の あらかじめ方向性を決めないみたいなことかなあ?
乱 「あらかじめ方向性を決めない」のは、どこかに書いてあるからじゃないよね。子どもがいたらやっぱり、その瞬間こんな子ども関係ないやんと思うわけでしょ、それはアナーキストでなくても誰でも思えるわけやんか。
の 革命唯一主義じゃなくて、いろいろ考えながら、思考しながら、ということ?
乱 思考もあるけど、言語だけじゃないと思う。
の 感覚? フィーリングというか・・・。
乱 そう感覚や体感的、無意識的なものかもしれないね。
の それって何なんかな。それやったらまたわからなくなってしまうな。ぼくはあくまで言語なんかなと思うのだけど、どこまでいっても。
乱 でも、言語は必要なのだろうけど、すべてを表現することは無理でしょ。人間の営みがすべて言葉に還元されないじゃない。
の 無理やけど。
乱 例えば辻潤に惹かれるところがあるのは、勿論辻の書いたものもあるのだけど、結局、彼の存在自体、立ち振る舞い自体に惹かれると思うけど。
の 辻潤は、アナーキズムに寄ってないからでしょ?
乱 それはそうだけどね。
の ある種のニヒリズムに近いからかなあ。
乱 ニヒリズムだけど、辻潤はそのイデオロギーの信者だからそういう立ち振る舞いをしているわけじゃないでしょ?
の もちろんそうやけど。
乱 だから、イデオロギーの前にその人の存在があって、そのイデオロギーを選択している。だから人が先なんよ。
の いろんな宗教でも思想でも何でもいいのですけど、そのイデオロギーを絶対化するじゃない? 絶対化しないのがアナーキズムのいいところなのにも関わらず、どこかで絶対化しようという勢力がアナーキズムのなかでは強い。辻潤なんかが嫌がっているのはそこなんじゃないかな。だからアナーキストじゃなくて、ニヒリストになるのかなと思ったりする。そこはどう?
タ でも、仕組みや規則を守る、作るという傾向も、アナーキズムの中にはずっとあるような気がします。それは、アナーキズム的にやりたい人が、もしかして、そういう秩序や仕組みが好きだから、ということじゃないかと思います。アナーキズムの歴史を見ていくと、組織を作り運動を作り、会合を開き、全会一致で可決、みたいなことをやり続けてきたところがあるでしょ。そういうなかで、アナーキズムはこれこれだから、アナーキストはこれこれだから、だから社民と共産党より優れているっていう説明を延々とやりますよね。そういうのが好きなんかなあと思うぐらい。
乱 だから、そこがね、アナーキズムという他のイデオロギーと比較して自由度が高いとはおもうけど、その選択した人が、自分が選択したイデオロギーで環境を作ってしまおうとしだすと、他人を巻き込まないといけなくなって、仕組みや規則、システムが必要になって来るのかなって・・・最終的に記述されて残るのはシステムだけの話になってしまう。
タ それからね、アナーキズムにこだわればこだわるほど、自分以外の人も巻き込んで何か作りたいっていう傾向がでてくるのじゃないですか? たとえば、成果を上げたいとか。
乱 だからそれはアナーキズムの本質じゃないというか、アナーキズムが段々と静止していくようになって最終的には違うものになってしまう。
タ いや、そうじゃないけど、でも実際に「アナーキスト」って自称する人や「アナーキズム」に関わってきた人たちがやってきたことは、そうじゃないでしょうか。
の それはアナーキズムじゃない、というのは乱君の見解であって、普通はそれがアナーキズムやねん。
乱 でもそれってボリシェヴィキやっている人と同じやん。そういう人やったら、会社でも組織人間でゴリゴリやっていける。だってボルと同じ世界やろ、組織で人に命令して動かして・・・。アナーキズムはちがうやん。そんなまじめなものやないやろ。
の だからね、いうたらさ、まじめなアナーキズムほどくだらんものは、ないみたいなことやと思うねん。もっとふまじめに適当にやればいいのにさ。
乱 その適当さが大事と思う。でも、ふまじめって記述できへんでしょ? 「アナーキズムはふまじめでなければならない」とか(笑)。そこが難しい。
の 書いたら、それはそれで、「アナーキストはこうしなければいけない」みたいなのになるやん。それがウザいんよ(注40)。
乱 でも、ほんとのとこ、書けないやろ。「ふまじめでなければならない」って書いたらまた、それはそれで変やからね。もしそれで「ふまじめ」になったというなら、それはイデオロギーの言うとおりに従っただけで、それこそ「ふまじめ」でなくなる。
の 「ふまじめってどんなんや?」って言われるやん。
タ 「アナーキズムってどんなのにしたらいいんですか」って聞く人が多いんですよ。
の 考えろ! 自分で!(笑)
タ だから、そこが問題なのかな? 「こうしたらいいんだ」という答えを作るところが。
乱 聞いている時点で違うんだけど。
タ 「こうしたらいいんだ」と言ったとたんに、「まじめなアナーキズム」になっちゃう(笑)。
の だからね、その人がまじめやから「どんなことたらアナーキストになれるのですか?」みたいな話でしょ? そんなこと自分で考えへんやつはやめろ!アナーキズムなんか!(笑)。
乱 考えてなるもんじゃないよね。
の そうなんよ。そこは感覚的にも自分で獲得せんとしょうがない。
乱 書かれたもの、文献だけから入ると変なことになっちゃう。
の そう。今わかったのだけど、この前の対談で大杉と辻の違いについて話していてわからへんかったけど(注41)。大杉は言語的に考えてアナーキズムにいくのよ。言語的に考えていって「これが正しい」と思うたからアナーキズムにいった。それで、アナーキズムヒーローみたいになっているけど、辻はならへん。多分、アナーキズムは辻からしたら、縛られるところがあると思う。「まじめなアナーキズムは嫌やな」と思ったりしたんやと思う。だから、ああいうわけのわからない態度でおったんかなと思う。
乱 大杉は言語表現やけど、辻は全身で表現していく。だから、辻がやり続けたのは全てがそういうことやったから、それが表現力になった、そういうとこでしょ? 言っているのは。だから、辻は、アナーキズム、個人主義、ニヒリズム、ダダ、降参主義(笑)、どれもはまりそうだけどどれもはみ出してしまう。
の うん。そうかなあーって思う。
乱 もちろん、書かないとしょうがないから、書く部分もあるのやけど、書かれたとこと違うとこを見ていくことが大事なんかな? まあ、書かれたものがないと全くわからんというのもあるのやけど。
タ みんな書かれたことに注目するでしょう。たとえば、人殺した、集まった、機関誌を出した、どこかで何かを言った、とか、書いた、とか。そこからダイレクトにアナーキズムを引っ張り出そうとすると、そういうわかりやすい記述ばっかりが大事になってそこだけみるのじゃないでしょうか。
の そうそう。
タ でも、本当のところは、記述されていないところを想像していくことも大事ですよね。だいたい、アナーキストはみんなつかまるようなことやっていたから、実は書いたものがそんなにたくさんは残っていない、というところもあるわけで。
乱 そう言えば『シュトルム・ウント・ドランクッ』の監督がね、俺は余白が好きで、台本にないものをみたいとか偉そうなこと言っているんよ(注42)。それだったら余白の生み出す元をしっかり造らんとあかんのに。
の 本編をちゃんと描いてもいないのに、「余白」って言うな、ということ?
乱 余白含んでの本編なのだろうけど、意識レベルのところがぐちゃぐちゃでは余白もできるわけないんよ。意識というのはシナリオだったり演出だったりするわけで、監督はそれを構成するのがお仕事。その果てから余白が生じてくる。同じ意味で、アナーキズムの文献とかは、その余白を生み出す種。でもそれを発芽させるには人の関与が必要だけど。
の 人間は言語を持っているから、カチッとしたとものを必要とするとこがあると思うで。言語的にね。だからぶれるのも嫌やと思う。感覚とか嫌だしね。どうしたらいいの?になるから。
乱 言語だけに合わせていくとおかしなことになるよ。綱領があるから違反者のこいつは処罰せなアカンとか、友だちやけど密告せなあかんとかになってくるわけでしょ? 新撰組(注43)みたいに戦闘に特化した集団ならそれは必要なんだけど。
の 運動でも例えばIRAの・・・誰やったっけ? ケン・ローチが撮った、アイリッシュ映画。
タ 『麦の穂をゆらす風』(注44)。
の あれも、本当は殺したくないのだけど裏切るのよ、誰かが。ずっと一緒に運動やってきたから、本当は殺したくないのやけど殺してしまう、みたいなのが。殺さんでも、エエやんかと思うんやけど、なんで殺すんやろか。
タ 無政府共産党(注45)の時もそうでしょ。あれも殺したくもなかったけど、規則を破ったから殺さなきゃいけないから殺したっていうことですよね。
乱 記述されたルール(注46)を守るために抹殺していく。殺すのは感覚的にはおかしい、でも書かれているから、殺さなくてもいいか、とか思わない。
の せやけど、ぼくらもいうたら、まあ言語的に縛られているわけやろ(笑)。
乱 言語がいらんとは言うてないよ。言語は必要なんだけど、それは余白を知るための言語でもある。
タ 19世紀から20世紀まで、ずっと革命の時代だったというのもあると思います。革命が起きるかもしれない、っていうリアリティーが今よりもあったんではないかと思います。そうなると、どうやって暴力によって革命を起こすか、革命のあとに未来社会を実現するか、というのが一九世紀以来、大問題だったと思う。そうすると、徒党を組んで、暴力を使って、組織にとって不都合なやつを処罰しながら、今の政権を倒す、そのあとの社会がどんなにすばらしいかを宣伝する、ということになるじゃないですか。「どうしてそんなことするの?」っていう質問をする人はあんまりいなかったんでは、と思います。
乱 当たり前だから説明がいらないということかな。
タ そうかなと思います。でも、だんだん国家が強くなっていくと、そう簡単じゃないということになっていった。そういう状況で、それまで言っていたことと同じことをやろうと思えば、やり方として現実的なのは共産党ですよね。そうなるとアナーキストも、共産党に対抗するために、自分たちが正しい、ということをいわないといけないから、ロシアではどうだった、とかスペインではどうだった、とか、そういうことを言い続けることになったんだと思います。そもそも、徒党を組むと、どんな人にもわかる言葉で説明していかないといけないから、感覚よりも言葉や論理や規則性を重視せざるをえないですし。
乱 でも、仮に力で権力を倒したとしても、屈した側はそれで改宗してアナーキストになるわけではない。やられたヤツはずっとその恨みを心の底に刻ませていく。今、アメリカがやっている戦争もそうじゃないですか? やっつけられない。つぶしても、どんどん恨みがつながっていくだけだから終わらへん。そういうのにいったんはまると抜け出せへん。だから、力ではなにも達成できない。ひとり残らず殲滅するなら別だけど。
タ 戦前は、天皇と軍隊を壊さなきゃいけないみたいなん、あったのですかねぇ?
の 大杉も、そんなん感じてたんか?
乱 ないでしょう?
の 何が?
乱 天皇制打倒って思ってたん? そんなこと思ってへんやろ。
の いやぁ、思ってたんちゃう?
乱 へえ? そう。なんか記録とかあるの?
の わからへんけど、思ってたんとちゃう?だって、幸徳からやろ。思っていたのは思っていたのと違う? 天皇やるか、やらへんかは別やで。でも問題は問題やと思ってたんちゃう?
乱 でも反乱の気配とかはなかったし、テロもやろうとか思ってなかったやろ。
の そーいや、大杉はやりそうでやらへんな(笑)。
乱 なんやそれ。確かに関東大震災の混乱につけこんで事を起こそうなんて考えてなかったよね。
の だって文献みたら、最後は、ファーブルとか出てくるでしょう。もうそっちの方へいってたんと違う? ぶっちゃけ、しんどいやん。いつまでもこんなんに関わっていたら。ただ自分がアナーキズム界の中の巨人みたいになっている部分があるから、あんまり言われてへんかったんちゃう? それに、弟子筋みたいなのを抱えとったら、冗談でもなかなか天皇をどうこうとか・・・やりまひょか?みたいになれへん。
タ 大杉は、フランス革命も女たちや農民が起こしたのであって、革命家はいがみあって反革命を招いた、重要なのは共同の行動だ、と言った、みたいな話がありましたよね(注47)。革命なんて、そんなに簡単じゃないぞ、って思っていたのかな。
の 米騒動のときも、やろう思うたらやれんこともなかったと思う。でも現実はなにもせえへんやったやんか、大杉って。今の過大評価の中で巨人になっているだけで、ほんとは、何かをやろうみたいなことなんてあったんかなぁって思うわ。
乱 ヤクザでも民衆側に立ったものもいるというのにね。だから、等身大の大杉像で考える必要があるよね。
の 大杉が過大に言われているだけと違うかな?
乱 アナーキズム史でもすごいとか言い過ぎなんちゃう?
アナーキズムのパロディー化?
の そうなると、さっきの話に戻るのだけど、やっぱりそういう幻想みたいなんは言葉によってできていて、それが前提になっちゃうみたいなところあるやろ。そういう幻想を取り去ってみたら、結局アナーキズムってなんなんやろ、って思うわ。でも、 言葉によらないアナーキズムなんてあるのやろか? だって、無権力状態みたいなのを構成しようとするのがアナーキズムなら、それってすごい言語的やんか? それで考えていったら、今言っている感覚的なものって成立するのかな?
タ 言葉じゃなければいいんでしょ? 踊ることとか、絵を描くって。音楽なんてそうですよね。意味を与えないけど、自分を解放する、言いたいこと言う、でもそこには言語がない。徒党を組む必要もないし、人を説得する必要もない。アナーキズムってすごく感覚的で、自分の衝動に正直な表現なのでしょうか。
の でも、例えば、ごっつい正直に今回の映画の批判しようとすると、「それはダメや」みたいなの出てくるんじゃないですか? みんなほめるばっかりでさ。
乱 たしかに映画でもなんでも単にほめるだけやったら何も出てこない、ほめても批判しても、なんか生み出せるかどうかが大事かな。
タ そういえば、さっきも出ていましたけど、あの映画の中に、アナーキズムこうあるべし、みたいなのがあったと思います。
の 乱君がはじめに言うたけど、主人公役に「人殺せるか」とか聞いたとか、っていうところもそうやん。そういうすごい誤解がまずある。そこがアカンのかなと思う。
タ パロディ化されたアナーキズム。
の そうそうそう!
タ もともと言語化されたモデルがあって、それにあわせた結果ではないでしょうか。自分の中の何かを突き詰めて、こういう発想、こういう感じ、みたいなのを何とかして映像化しようということよりは、既にあったモデルを使った、ということでしょうか。
乱 あのやり取りの場合、役者に「人を殺したいって思ったことありますか?」と尋ねて、その返事が「あります。何度でもあります。」だったよね。それをテロリストの心情に近いものあるから使えるじゃなくて、僕なら「じゃあ、なんで殺さなかったのか?」と役者に尋ねたい。本当の殺意があっても殺せてないわけでしょ、現実は。その歯止めとなったのは何か、逆にそれを乗り越えるとテロリストになれるわけだけどね。
の いや、あの監督、アナーキズムやテロに関心ないからそこまで考えんよ。
タ でも、関心持っている人が、今までおもしろいこと書いてきたのかっていうと、まあ私も含めて(笑)、どうなのでしょう?
の アナーキズムかくあるべし、っていうのは、さっきもいうたけど、おもしろくも何ともないわ。アナーキズム社会になったらみんなが仲良くするとか連帯するとか。
乱 たとえば物を均等にわけあうなんて、現実的にありえないよね。
の 100人おったら、牛丼100杯、1人1杯ずつにしたらいいけど、1人だけで99杯食いたいねん、みんな。
乱 欲望を人の4倍も、5倍も持っているのがざらにおるのやから。
の アメリカで80年代まではCEOとかいっても、大体、年収で言うと1億とか3億ぐらいやったけど、いまは500億とかになっているやろ。そんなにいらんやんって思えへん? 500億っていらんやん。
タ もっとたくさんもらっている人いるでしょ?
の リーマンつぶした人が500億か600億ぐらい持って行った(注48)。
タ なんだそりゃ?
乱 何してんねん⁉
の 意味わかんねぇよ。で、リーマンつぶれた後に作った映画があって、そこで社員が言うているんよ。俺3億もらっている、でも、半分は税金で持って行かれて、後の1億5千万残っても、家にこんだけいる、愛人にもこんだけコストかかる、って言ってるんよ。残らへんやん。3億でも足らんわ、こんなんでやっていられへんわって言ってるんよ。3億もらってやっていられへん言うてんで社員が。ようするに、そんなもんやと思うねん。
乱 それって結局、生活がド派手になるから給料が高くても結局増える前と一緒で、もっとないと困るってなって・・・なんだかなあ。欲望が下がらないんよ。
タ 19世紀のアナーキストは、消費があるレベルまで達すると人間は満たされるので欲望がストップする、みたいなことを考えていたから、「各人はその欲求に応じて取る」という原則の共産主義が実現できると主張していたのではないでしょうか。今以上の格差社会だったし。でも、今みたいに、コンテンツとかイメージとか金融とか、かたちのないものでも、何でもかんでも商品化して、無限に資本と生産を拡大していくような社会、グローバル化してなんでも手に入るような状況を、どこまで想定していたんでしょう。
の サンノゼのIT企業で働いて、ストックオプションもらったとするやん、普通のぼくらみたいな人が。何10億ってもらったら、使い道がわからない。しゃあないから家を買う。とりあえず。メチャメチャでかい家。ほんならその維持費がすごいねんて。結局どないするのかと言うと、売ってしまう。維持できへんから。ストックオプションだけや。何10億もらったって、ずっと毎年何10億もらうのと違うねんで。株価下がったら、それが10億円から5億になる可能性もある。だから、維持できへんから、結局使い道もわからへんから、でかい家買って維持できへんから売ってしまうと。
乱 マルクスが言っていた「疎外」が結局そうかなと思う。そうなると、人間が全体性を失って、例えば交換可能な記号みたいな存在になっていると。
の 記号化された。
乱 ある種不完全な自我って、ずっと飢餓感を持ち続けると壊れてしまう。だからもっといるようになってくる。それよりは全体性を保持した方が本人にとっては良いはずなんよね。お金や物があると、人間はそれを失っちゃう。そういう金、300億にしようが、500億にしようが、それで収まるってことは、おそらくないのやろうね。ますます足らんようになってきて、もっともっといるって。
の 必要ないのにでかい家買ったり、結局そういう使い道しかなくて。結局どないしょうもなくて、維持できなくなるやろ。
乱 どうしようもなくて、別荘買う、自家用機を買う。
の 自家用機ってプライベートジェットやろ、ビジネスで使ってるヤツやろ? 年間維持費が4億か5億円あって、パイロットもいるし、駐機代もすごいって。
乱 いらんよな、本来は。
の いらんけど買うねんて。アハハハ。
タ 戦争起こるのも、お金があるからじゃないですか? お金が余ったから、戦争でもしてみようかなあ、みたいな。
の よく言うてんのは、タックスヘイブンで、ケーマン諸島とかで、あれ全部なくして、多国籍企業が各国に普通に税金を払ったら、その金だけで、アフリカの飢餓が全部なくなるって。でもそれせえへんでしょ? いいことやん、企業としては。メセナとかよく企業が言うやん。でもせえへんねんそんなこと。そんなもんなんよ。リーマンなんか潰しとってさ、世界的に恐慌起こしとってさ、それでも500億持ち逃げするわけでしょ?ありえへんやん。さすがにアメリカの上院で、お前らこういう罪やろって言われて。でも誰も逮捕されへん。ちょっと前のアメリカやったら逮捕されて、ずっと刑務所に入っている、何十年も。今はそういうこと全然ない。そういう強欲がまかり通る世の中になっている。だからクロポトキンかブクチンか知らんけど、相互扶助とか共産主義とかありえへんて。
乱 空論やね。現実はそんなことならない。まあ、例えば遭難や被災して、みんなが水とか残った物をわけなあかん場合とか、そこのとこだけはあるかもしれへんけど。
の そういう意味では、凄い世の中になったよね。ホントに強欲な人らが一杯出てきて。
乱 その対極として、金なくても生きていけるってことが、出来るのだったら、それはそれでいいと思うよ。ほんとうにそういうのでいいのですか、っていう議論だって起こす人はおるし。
タ 最近、「お金もうけをしないで多少貧しくても楽しんで生活したい」という人も、ちょっと増えてきているような気がします。3・11以降。そういう人の中に、アナーキズムって聞いて、なんだろうって関心を持つ人がいますよ。非正規雇用で、ちょっと手に職があって、あとはバンドか何かをやっているという人。アナーキズムにもちょっと興味がある。でも政治とかには興味がないから、別の興味だと思います。やっぱり音楽でしょうか。
の でもアナーキズムがいいとか、そんなひと、そんなにたくさんはいないやろ?
タ ロシアに行ったらバクーニン生誕200周年集会やっていて、けっこう人が集まっていたんで、日本以外では盛り上がっているところもあると思いますけど。
の あ、その話にうつろか。『アナキズム』誌が特集するっていうから。
乱 「バクーニン特集」って、ひねりなさ過ぎ(笑)・・・「ダイエット特集」の方が売れるのに。
の 意味のないこと言うなよ! 『アナキズム』誌がなんでダイエットの特集せなあかんの(笑)。
乱 「バクーニン式ダイエット」で脂肪をバラバラバラどころかドカンと「総破壊」しますとか・・・。
の バクーニンは鯨飲大食やで、真反対や!
バクーニンはなんでおもしろいの?
乱 この鼎談でやるっていうから、しゃあないから調べてきたんやけど(笑)、結構おもしろい、バクーニンって。失敗だらけの人生よね(笑)。
の バクーニンが?
乱 ほとんど勝ててない(笑)。400戦無敗(注49)・・・じゃなくて逆やね、無勝。
の 400戦全敗?
乱 すべて負け。全敗。それでね、なんか、プロレスラーみたいな人やなって思った。タッグマッチを組んで、出て行って試合には挑むんだけど、全てことごとく敗退。
の それはそれですごいよな。400戦連敗やから。
乱 まあ、400戦もやってないけど、10試合10敗ぐらいはあった。革命浪人じゃないんだけど、革命のありそうなところにでかけていって、「請け負います」ってやるんだけど、全てことごとく負ける。個人的にも負け続ける。
の 政治的なテクニックがないのやろね。たとえば共産主義革命やったら、レーニンなんかうまいことやるやん? スイスでゆっくりしていたくせに、電車でピャーッと来て「乗っ取ったる!」みたいなとこがあるやんか? でもバクーニンはきっと政治的な手腕がないし、ずっとダメダメできているから、直裁的でダイレクトに、何とか革命しよう、みたいなとこがあった。
乱 だから、勢いはあるのよ。他団体のプロレスに急に乱入する。それはいいけど、ボコボコにされて帰るみたいな(笑)。最後は必ず敗退(笑)。それがおもしろいなと思った。負けっぷりがいい。
タ しかも、あちこちで借金をしまくって逃げて行くんですよ。
の 何で借金してんの? 働いてないから? でも貴族やろ?
乱 使いまくるねん、結構。
タ どこでどう使っているのかよくわからないんだけど、金もないのに「おごってもらった」とか、そういう証言であふれています。
乱 勝新みたい。みんなにおごっちゃうみたいな(笑)。来たい人みんなにバーッと振る舞う。
の ツルゲーネフはバクーニンのこと、どう思てたん?
タ 悪くは言わない。お金も気前よく貸している。それが不思議なの。
乱 好かれているよね、周りの人に(注50)。
タ そう。ただね、たとえば、ゲルツェンなんかも、好きなのだろうけど、こいつのことは全く理解できないしつきあいきれない、というスタンスですよね。
乱 全然違う性格だから。
タ ですよね。ゲルツェンはすごく冷静で熱くならない人。革命なんてそう簡単に起きないと思っている。だからバクーニンがシベリアを抜け出して来て、ロンドンにやってきたとき、バクーニンは「革命はどうなっているんだ!」なんて逮捕されたときと全く同じテンション(笑)。でも48年革命はとっくに終わって反動の時代がきてから10年以上たっている。
乱 浦島太郎状態やね。
タ もともと冷めているゲルツェンは「やっかいなやつが帰ってきた」ぐらいの対応(笑)。何とも笑えるんですね、これが。ゲルツェンが書いているので有名な文章なのですが、バクーニンは、「妊娠3ヶ月を9ヶ月と誤診した」っていうもの。それでも、死ぬまでバクーニンに金を貸し続けた。
の え? 誰が?
タ ゲルツェンが。バクーニンが貸してくれ、とか言うと貸すわけ。
の なんやろね。ぼくやったら、絶対イヤやわ。どつくで、そんなやつ(笑)。なんで好きなん? そのへんがおもしろいな。辻潤と似ているよね。
タ それに、みんな彼の言葉や態度からすごい影響受けるのです。ゲルツェンはもともと冷めているから、まああまり影響されない。でも、他の人は、いつでもだいたいバクーニンが一席ぶつと影響を受けて、それで金を貸す(笑)。
の でもバクーニンは、ずっと連戦連敗なんやろ?
タ 生涯を通じて、結局、何もできなかった。人をまとめて組織的に何かを進めるといことができなかったし。そのかわり、ネチャーエフ(注51)とかがかなりえぐいことやっている。バクーニンはころっとだまされた感じ。
乱 よくだまされる人やから。
タ ネチャーエフが捕まったら、とんでもないやつだったとういことがわかる。マルクスとかがバクーニンをこてんぱんに批判する。でもバクーニンは、ほとんどなんにも知らない。知らないうちにいろんなことが起きていた、という感じです。ただ、『革命家の教理問答』はバクーニンが書いたらしいですが。
バクーニンってアナーキストなん?
乱 でも、バクーニンが参画した革命は、必ずしもアナーキズムと関係ないでしょ?
タ 関係ないです。
乱 アナーキストと言われているけど、革命の匂いを嗅ぎつけたら最後、赤旗のところにでもどんどん行っている。
タ ユダヤ人差別発言もすごいし、スラヴナショナリストですから。
の なんでもありやな、革命やったら。
乱 革命請負人みたいな奴。
の イデオロギー的にはアナーキズムに振り分けられるけど、多分、革命ができたらなんでもオッケーやろ。ネチャーエフも同じような感じかな。
タ 晩年、60歳頃に、ボローニャかどこかの革命に加わろうとして、スイスから山越えをするけど、計画の段階で終わってしまって、ピストル自殺をするのを止められて、スイスに逃げ帰る。
の なにしに行こうとしたん?
タ 革命に参加しようとしたんです、ほんとに。死ぬ2年前。その前に、引退宣言を発表したんですけど。そのあと革命に参加しようとした、というわけなんです。どうしてかっていうと、どうも、死のうと思っていたところがあって。その理由が何とも情けなくって。
の 情けないってどんなん?
タ 引退宣言を出してから、イタリア人のカフィエロに家を買ってもらうんですが、じゃんじゃん金をもらえると勝手に思い込んで、土地やら家畜やらを買い込んで。なにもかも奥さんのためだったそうですけど。ところが、カフィエロは、実はそんなに金を持っていなかった。バクーニンは家も全部手放してカフィエロに譲ることになる。
乱 ただのダメンズやな(笑)。
タ でも、奥さんに「おうちが全部なくなった」と話すことができない。そこで、死に場所を求めてボローニャに行った(笑)。
の アハハ~。なんやそれー?
タ そのあとも、バクーニンはロシアの故郷の遺産を相続できると勝手に考えて、またもや高価な家と庭園を買うけど、結局遺産なんてほとんどなく、そこも抵当に出して立ち退いたのですね。
の バクーニンは働く気はあったん?
タ 原稿書いても全部途中で終わっちゃう。バクーニン全集出ているけど、大体、どの原稿も途中で終わっているんです。
乱 目的が革命やからね。さっきも言ったけど、なんか動きがプロレスっぽい人。何でもいいから闘争のある所に登場してそのまま参戦。そのパフォーマンスがすごいから、カリスマになっちゃう(注52)。でも強くはないかボコられちゃう。だけど負けても負けてもまた出てやる。転戦転戦して、最後まで続けようとした。これは人気でるよね。
タ 一番アナーキズムっぽいこと言っていたのは、生涯の中でほんとに晩年の数年間です。第1インターの内紛でマルクス派がきたないことやって分裂した前後で、かなりはっきりアナーキズム的なことを主張している。それを除くと、デビュー論文「ドイツにおける反動」の「破壊を求める情熱は創造の情熱だ!」ということば。
乱 あ、それは知っている。コイズミも似たこと言っていたけど(笑)(注53)。
の さっきもいうたけど、そういうのを除けば、辻に似ているとこ、ずいぶんあるよね。だらしなくて金を借りまくるところとか。でも、女性関係は、辻にくらべると、ずいぶんあっさりしているよね。
乱 辻とくらべたら誰だってずいぶんあっさりしているわ(笑)。
タ そういえば、いまだきちんと描かれていないのは、バクーニンの奥さん。彼女の視点からバクーニンがどう見られていたのかが興味あります。だって、二人がシベリアで知りあったとき、バクーニンは監獄生活で歯が全部抜けちゃっていたから、ぜんぜん男前じゃなかったわけです。年齢差もずいぶんあったし。
乱 そうだね、男性が見たってちょっとどうなの、っていう見栄えで。それこそブサヨか(笑)、そもそも年齢が20歳以上違っていたんだよね。
の 今だったら、そうとうハードルの高い結婚やんか、それって。男の方がぶさいくで金がなかったら、普通は無理やろ?
タ バクーニンがシベリアから脱出してヨーロッパに逃げたら、奥さんも必死になって追いついて、死ぬまで、だいたい一緒。バクーニンは調子のいいことばっかり言って借金しまくるけど、威勢よく使っちゃうから、常にお金がない生活。彼と結婚してなにがよかったんだろうって思う。
の ほかの男性と仲良くなって子どもができるよね。
タ そう。ガンブッチという若い人との間に子どもができたんですけど、その事件はね、なんか、バクーニンがインポテンツだったっていう噂の根拠のひとつにもなっている。でも、奥さんは、なにを考えていたのか、っていう視点では、いままであんまり考えられていない。ガンブッチと過ごしても、バクーニンはそのことを怒っていなかったようです。むしろ、年の離れた結婚をした自分が悪かった、罪は自分にある(笑)、みたいな感じだった。
の え? そうなん? 不倫して責められるのは奥さんのほうやん、ふつう。なにそれ(笑)。
タ 奥さんはバクーニンの政治的な思想とかは全く理解していなかった、と強調されるけど、そうだとすれば、さっさとガンブッチのところに行ってもよかったはずです。でもなぜかバクーニンのところに戻ってくるんですよね。
の やっぱり人間として魅力があった、っていうこと?
タ そうとしか考えられないんです。奥さんとの関係をちゃんとみていけば、彼がめちゃめちゃやっても好かれる理由がわかってくると思うんです。
乱 インポだけど変態プレイがすごいとかそんな理由の方がおもろいけど。NTRもプレイの一環だとか・・・。
の (無視して)でも、タナカさんがバクーニンの集会でロシアに行ったとき、子孫の中で権利の取りあいみたいなことがあるとかないとかいうてなかった?
タ 権利の取りあいというより、正統性をめぐる争い。バクーニンは子どもがいなかったけど、兄弟つながりで子孫がたくさんいるらしいんです。だいたい、ロシア革命のときに西ヨーロッパとかに亡命したらしい。社会主義が崩壊してから、バクーニンのおじいさんの代から所領にしていたプリャムーヒノというところに、記念碑とかを建てたりしているんです。今回の集会は、そういうバクーニンの生地で開かれたんです。
の どんなとこなん?
タ モスクワからバスで5時間以上かかるちっちゃい村みたいな所で。ほとんど森でしたね。そこに行ったら、バクーニン家の子孫が自分たちの祖先の名誉回復をしているのがわかります。たとえば、教会の壁に、バクーニン家の祖先からそのあとの代ぐらいまでの人たちについて書かれた記念碑を作ったりしているんです。でも、革命家バクーニンの名前を村にある通りの名前にしようとしたら、反対されてダメになったそうです。
の ええ?なんで?
タ ようするに一族のつまはじき者だったと思うんですが。
の バクーニンが?
タ やっぱり恥さらしなんですよ。だってひどいじゃないですか?
の なにが?
タ まず、ロシアとかヨーロッパで革命を起こして旧体制を打倒せよ、と主張した人だから、これは謀反人ですよね、皇帝とか支配層からみれば。それでお尋ね者になって、貴族の位を剥奪される。逮捕されて投獄されて、ほとんど死にかけて、なんとか恩赦がでて、シベリア送りになる。でも、シベリアから逃げてしまう。それで何かを成し遂げたわけでもない。全生涯であちこちで借金しまくっている。そのことで、悪口を言う人たちもずいぶんいたし、マルクスなんかからはロシアのスパイ呼ばわりされていた。死んだあとは、マルクスに敵対した、ということで、とくに社会主義時代は評価は低かったはずです。要するに一族の恥ですよ。
の ハハ、そういうことか。
タ まじめな社会から見たら、この人はね、一番まじめに働いてない人でしょ。
の でもさ、同時代に生きていてね、なんやねん借金ばっかりしやがって、ってなるけどさ、大分時間経っているから、100年とかそんな時間が。別にいいやん、有名やん、言うたってええんと違うの?
タ モスクワにはバクーニン通りがあるそうです、ちゃんと。他の都市にもあると思います。それなりに有名人で、ロシアの国民的著名人の一人だっていえば、やっぱりそうだから。
の そうやろ、有名やろ。
タ おそらく、地元の人じゃなくてね、いまのバクーニン家の子孫が嫌なんだと思う。
の いやなんかな?
タ バクーニンの家系の人達ってもとは貴族でしょ、ロシアの。
の 貴族やから嫌なん?
タ 貴族から見たらバクーニンとか嫌なんですよ。
乱 落魄、落ちぶれた貴族。
タ でも、自分たちは落ちぶれたとはいえ、ロシア正教と皇帝のもとで生きてきた、っていうのがあるんじゃないかなと思います。でも、バクーニンとその美しい姉妹に引き寄せられて、知識人がモスクワから来たりして、知識人がモスクワから来たりして、知識人のサロンみたいになっていたから、バクーニンは一応、バクーニン家を引き立てる役割を果たしていたんですよね。そのことを題材にした演劇もできたし(注54)。でも、やっぱりね、その後の人生がよくないから、あんまりこの人を代表にしたくないんでしょう。彼のあとの世代にもいろんな人がいたから、その人たちの方が大事なのではないでしょうか。
の なんか、ちょっとかわいそうな気がするなあ。インポとか言われて(笑)。
タ 今でもベルギーに、バクーニンの兄弟系列の子孫がいて、その人が集会に来ていました。でも、そこの一族だけは、バクーニンのことをずっと尊敬してきたようでしたね。そういえば、名前がバクーニンさんだから、ベルギーでも子どもの頃から目立っていたんじゃないかなと思うのですけど。
乱 自分の苗字がバクーニンだったらめっちゃインパクト強いね(笑)。
ブラジルで暴動を起こしたバクーニン・・・ってなに?
の 最近のアナーキストはバクーニンのことどう思っているの?
タ ロシアでは集会が開かれたんですが、それはどうしてかというと、たぶん社会主義時代の反動なんだと思います。悪口は一切言わずに大絶賛みたいな感じでした。私以外に報告者が20人ぐらいいたんですけど。
の どんな報告があったん?
タ ようするに、みんな大絶賛。バクーニンが「だめな人だけど愛すべき人だった」という変な話をしたのは私ぐらいで(笑)。
乱 タナカさん、糾弾されへんかったん?(笑)
タ 暖かく受けとめてもらいました(笑)。「君の話したことは重要だよね。小説でもよくある人物像だ」なんてこと言ってくれる人もいて。さすが文学の伝統があるなと思いました。ロシア文学にはよく役立たずの理想主義者が出てきますが、それを暖かく見守る、みたいな伝統もありますから。人間を一面的に評価しないでしょ、文学って。
乱 理想化の一点張りじゃないということやね。
タ 社会主義時代も今のプーチン政権下でも、ロシアではアナーキストは弾圧されたり右翼の襲撃にあったりしていますから、そういう意味でバクーニンは現在のロシアのアナーキストのあいだでとても重要なシンボルなんだと思います。
の 幸徳や大杉みたいなもんなん?
タ そうかもしれません。でも、向こうに行って思ったんですけど、ロシアは、日本と全然違って、運動としてのアナーキズムがちゃんとあるんです。雑誌とかウエブサイトがあって、逮捕されたアナーキストを救援するアナーキストによる独自の組織もある。それに、プッシー・・ライオットみたいなアナーキスト的な人たちがいて、体を張って権力と戦っているから、あそこにはアナーキズムがある必然性がありますよね。
の たしかにプーチンはえぐいことやっているわ。
乱 ジャーナリストや政治家が何人も暗殺されているよね。
タ ロシア以外でも、バクーニンはアナーキストの間で取り上げられています。これは最新のネタです。この絵を見てください(図1参照)。これはポルトガル語でしょ、ブラジルのアナーキストがネットに上げた絵です。ブラジルでこの前ワールドカップがあった時に、ものすごい反対運動が起きたでしょ?
図1:
の うんうん。
タ あのときにネットにあげられたんです。当時、ものすごい暴動が起きましたよね。ちょうどあの時に、三四歳の大学の先生が電話をしていたそうです。彼女、運動に関わっていたので、警察が目を付けて盗聴していた。そしたらこの先生が電話でね、しきりに「バクーニンが、バクーニンが」と言っていたらしい(注55)。
の へえ!
タ まあ、生誕200周年だったからなのかも。すると、リオの警察がね、バクーニンというのを、「暴動」の参加者でお尋ね者の一人としてリストに入れたんだって(笑)。
の え~? なんで~?
タ でね、暴動について2000ページの報告書があるんだけど、その中で、こいつは暴動を起こした一人である、なんていう勘違いをして。この人物は危ない、プロフェッサーが言っているからたしかだ、危ないと書いてあるらしい、と言ったのかどうか知らないけど・・・(笑)。
乱 そんな報告書、すぐに読めるんかな。
タ わかんないです。でも、そういう話が伝えられているんで、どこかでわかったのでしょうか。いずれにしても、こうしてバクーニンは、ワールドカップ開催中のブラジルでお尋ね者になったんですね。200年前に生まれて、百何十年前に死んだ男がね、結構すごい話ですよね。バクーニンって誰かが口走っただけなのに、それをブラジルの警察は「そりゃ危ない男だ」とか言って(笑)。
の バクーニン知らんかってんやろか?
タ そう、知らない。
乱 ブラジルやろ。
の ブラジルでも知っている人は知っているやろ。
タ マルクスもそういうふうになったことがあるらしいです。ブラジルの警察ってそうなんです。
の でも思想犯取り調べなあかんから。
乱 ゾンビかもしれんな(笑)
タ マルクスだって名前、一般にそういう人いるから。
の バクーニンはともかく、マルクスは知っていると思うねんけど。
タ マルクスも一度、ブラジルでそういうお尋ね者になったことがあるらしいです(笑)。それで、今回、ブラジルのアナーキストは大受けして。それでこれを作った。
の アホやな。知らんねんなあ。
タ でもその辺の日本の警察官も知りませんよ。
乱 そら知らんでしょう。バクーニンなんか教科書にも書いてないし。
アナーキストになったのは共産党が嫌いだったから?
の でも、バクーニンの訳したん誰やったっけ?右翼の・・・。
乱 勝田吉太郎やろ?
の 勝田キチタロー! あれ何で、こんなおっちゃんがバクーニン訳しているのかなと思うた
わ。
乱 カツきっちゃんはバクーニン好きやねん。
の 好きなん? ちゃうやろ? あいつ右翼やん。
タ 昔は左翼だったんでしょ、この人。
の 左翼だったん?
乱 でもアンチに変わっていった、そのきっかけがバクーニン(注56)。
の 反共やったん?
乱 反共ってぼくらもそうでしょ。ああちがった滅共か(笑)。
タ たぶん、大沢さんとか向井さんとか、戦後の日本のアナーキストでそういう人多かったと思います、共産党がいけすかなくてアナーキストを選んだ、というパターン。向井さんが書いているけど、戦争が終わったら、自分を拷問した特高も共産党に入ったぐらい、猫も杓子も共産党だったから、そういうのがいやで、アナ連に入ったんだって(注57)。
の へえ。そういえば乱君も会社のいうことがいやで、会社が一番いやがることをいっているから、っていう、単にそれだけの理由で左翼系の研究会とか行き始めたんやろ。
乱 え? まあ、向こうが洗脳してくるから、左翼思想でカウンター洗脳したろとおもっただけ。毒をもって毒を制す(笑)。これも、よくありがちなパターンやな。
の そんなん、よくありがちやないやん!(笑)
タ 高島さんとかは、そういうのと違うパターンで、アナ連とかに入る理由がもっとはっきりしてるいでしょ? アンチなんとかとは違う。
の 知らない。
タ 戦後すぐに向井さんの詩の会に入って、そのあと組合運動をずっとやっていたでしょ。自分が憲兵やっていて、本当に悪いことをしたっていう思いがあったんではないでしょうか。
乱 憲兵やってたん?
の 知らんかった。
乱 それがいきなりアナーキズム。
タ いきなりというより、復員して大丸デパートの警備員をやっていたんだけど、労働者のおかみさんとか子どもの万引きなどをあげる仕事をしていてつらくてしかたがなかったそうです。その頃詩に興味を持つようになっていて、向井さんを紹介されて、初対面で、向井さんに自分の身の上話をしたら、とにかく詩でも書いたら、とか言われたけどよくわかんないんで、大丸の警備員から足を洗って向井さんの詩の会に入って、労働者になった、とか、そういう話です(注58)。
の それで詩を書く。
タ うん、そういう話らしい。高島さん流にいえば、「足を洗う」っていうことが、アナーキストになる、ということでしょうか。
乱 そういうヒューマンな話苦手やな(笑)。
「息苦しいアナーキズム」から逃れるには?
の まあ、高島さんはどうかわからんけど、なんにせよ、今も昔もアナ系の人だって言われていて全然アナーキストじゃない人が多いよね。足なんて洗ってないし(笑)。バクーニンは、生き方とかがふまじめだからアナーキストに見えるところもあるけど。だいたい仕事してないから足なんて洗う必要もないやん(笑)。バクーニンとかはずしたら、昔から今まで、アナっていう人は、たいていくそまじめで規則でがんじがらめな感じがする。やたら説教くさいし、えらそーやし。ほんま息苦しいわ。どうにかして。
乱 そういう人がくそまじめに記述してきたから、変なステレオタイプ化されたイメージが広まっているよね。
タ そういえば、ちょっとまえは、ティーパーティーがアナーキズムなんですか、とか、最近は、ISISってアナーキズムなんてですか、って聞いてくる人がいて・・・。
の それって、パロディー化されたイメージでアナーキズムを考えているからやろ?
タ ティーパーティーは共和党右派のネオリベだから、「国家の破壊」だ、だからアナーキズムじゃないのか、とか、なんか黒服着て黒旗掲げてテロやるからISISはアナーキズムじゃない、とか、そんな感じでしょうか?(笑)。
乱 ネオリベによる国家の破壊も、ISISによる人体の破壊、国境の破壊もみんなアナーキズムってか(笑)。そんなにパワーないでしょ(笑)
タ まあ、イメージ戦略という点ではISISなんかに負けていますよね(笑)。
の そうやろ、世界中から人生捨てたダメダメなやつが「おもろそうやんけ」とか思ってやってきて加わるとか、・・・ぜったいないやろ?
乱 ISISはグロ映像やから、ユーモアのある映像はどうかな。アベ夫婦拉致って蓑踊り(注59)させるとか、V8エンジン搭載の超大型チェーン・ソーで全身スライスとか・・・
の アホかいな!それまんまISISや。ユーモアのある踊りやったら、AKBノリで、乱君とタナカさんがオレンジ色の服着てカメラの前で歌って踊って、とか・・・で、ぼくは監督とカメラマンでエエけど(笑)。
乱 それやったらネットの炎上ネタ必至やな。のんきち君が歌って踊るんやったら、政府禁制のアナーキズム暗黒盆踊りでもしましょか(笑)。
タ 警察に、「踊っているのは辻潤とバクーニンいう人です」とか言ったら信じてもらえたりして。
の しんじるかい、そんなん!
乱 今回の議論の結論がでたな。「息苦しいアナーキズム」から足を洗う方法。
の え、 どんなんよ? 足を洗うって。
タ ふまじめになってインド映画ふうにひたすら歌って踊る。名前を聞かれたら、「辻潤で~す」、「バクーニンで~す」と答える。
乱 いやあマサラ・ムービーより、なにせうぞ/くすんで/一期は夢よ/ただ狂へとばかりに踊り狂うまでよ! 踊って狂って踊って狂って、やがてそこかしこから火の手があがって、一瞬のうちに、焔は神々の住まいを包む。ワルハラ炎上。渦巻く人と煙りに、神々の姿は見えない・・・。
の え~それって・・・ちょっとちゃうやろ? また変なイメージできちゃうやん、ちょっと待ってよー、ねー、これで終わりはないやろー・・・。(次に続く・・・か?)
2015年大阪某所にて・『アナキズム』誌19号(2015年)掲載
注
(1)權田菜美/踊り子「ギロチン社へのラブ・レター~映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』に寄せて~」『アナキズム』18号、22~27頁。
(2)「戦争は科学を飛躍的に発達させるが、平和なスイスでは鳩時計しか生み出さなかった」映画『第三の男』(1949年)より。
(3)役名は「松浦エミル」で、「松浦」は、稲垣足穂の小説『彼ら(they)』から、「エミル」の由来は、同じく自伝小説『弥勒』の主人公から付けたとのことです(映画パンフ『シュトルム・ウント・ドランクッ』2014年、14頁)。
(4)『備前長船』は、南北朝時代備前国の刀工の流派。とりわけ兼光は、その美しさと凄まじい切れ味で知られています。
(5)サイテー映画の巨匠エド・ウッド原作のアメリカ映画(1965年)。日本では1986年に封切られ、邦題のインパクトもあってちょこっと話題になりました。墓場で運動会じゃなくって、死霊たちの奇妙なダンスをカップルがくくり付けられて無理やり鑑賞さされるという新手の変態プレイのようなストーリーです。
(6)高野慎三「映画『シュトルム・ウント・ドランクッ』製作意図」『アナキズム』17号、66~67頁。
(7)済州島四・三事件を題材にした韓国映画オ・ミョルの『チスル』(2012年)も、ゴッホの『馬鈴薯を食べる人たち』を映像化したような美しく残酷な映画ですが、白と黒の陰影、霧のベールでの出来事、それらの美がかえってテーマを邪魔しているように思えました。もっとも話の骨格は「シュトルム・・・」のようなことはありませんから再見にも耐えうるかと思います。
(8)フェデリコ・フェリーニついては説明の必要もないイタリア映画のマエストロ。白昼夢のように力強く絢爛しかも儚げな映像美の饗宴。『道化師』(1970年)は、サーカス、道化師を題材にした虚実混然としたドキュメンタリーフィクション、『アマルコルド』(1974年)は感傷的で 猥雑な自伝的作品。
(9)エミール・クストリッツァは、サラエボ出身の映画監督。この監督の作風、どう言えばいいのか、ポリティークなフェリーニかな、狂躁の祝祭映画。『黒猫・白猫』(1998年)、『アンダーグランド』(1995年)いずれも旧ユーゴ内戦が舞台。
(10)オルギーorgy は、オルギア、オルギーともいい、「陶酔」を意味します。元来はディオニュソス神信仰における儀式で、ニーチェ先生のお得意なとこですね「原始的な人間や民族のすべてが賛歌のなかで語っている麻酔的飲料の影響によって、あるいは全自然を歓喜でみたす力強い春の訪れに際して、あのディオニュソス的興奮は目ざめる。それが高まるとき、主観的なものは消えうせて、完全に我を忘れた状態になるのだ。」(ニーチェ『悲劇の誕生』岩波文庫、1966年、34頁)、そういえば既述した『死霊の盆踊り』も原題はOrgy of the Dead でした。とても陶酔できませんが(笑)。
(11)『雄呂血』、『逆流』とも坂東妻三郎主演の無声映画の傑作。『雄呂血』(1925年)は、坂妻扮する義侠の剣士久利益富平三郎が、義の為に貫いた行動が恩師や恋人、世間から誤解や曲解されついには無頼の浪人に身を落とすことに。そして破獄した平三郎、『憤怒の形相凄まじく、平三郎の胸に燃ゆる反逆の焔』(弁士)と、十重二十重に取り囲む御用役人達を斬って斬って斬りまくる大殺陣で終える映画。『逆流』(1924年)は、坂妻扮する下級武士が、上役の息子に、母親を事故で殺され、姉は陵辱され、恋人も奪われて、絶望のどん底に追い遣られ、ついに爆発!『血は逆流したのである』(字幕)と、仇一族郎党を斬りまくる映画。『浪人街』(1928~29年)監督マキノ正博、脚本山上伊太郎のこのシリーズについては、竹中労の『傾向映画の時代』をはじめとする著作で紹介されています。というより竹中自身が再映画化を企画してそれが映画史的事件になっています。『おのれッ裏切ったなッ』『馬鹿ッ!表返ったのぢゃわッ!』このセリフを書き込むだけで血が沸騰しそうになります!
(12)アモックamok は、元々は『文化結合症候群』といって「未開」文化固有の精神症状のことで、特に異種(西欧)文化と接点を持った時がきっかけとなるようです。『アモック』はそれのマレー版(『心理臨大辞典』培風館、2004年、1345頁)で、激しい悲嘆や侮辱を受け興奮状態に陥り、無差別殺傷事件を引き起こすこともあるとのこと。要はアナーキーを「病気」として位置づけたもの。上述の三本の時代劇は、大弾圧大抑圧を受けた個人がアモック状態となり暴れまわる様を、アナ系の監督やプロデューサーが映像化した由緒正しきアナーキズム映画というべきもの。 しかし、これらの方向はアナーキーではあってもテロリズムとはまた似て非なるでしょうね。だからギロチン社の面々のダダイズムダンスは煩すぎ。女装、白塗りの村木が骸骨と静かに舞うシーンでもあれば良かった。お口直しに、カラスヤサボウの『ダンスダンスデカダンス』でもご視聴あれ。https://www.youtube.com/watch?v/=MwHokQJe2Lg(2017年8月2日閲覧)
(13)「私は政治性のあるものに対しては全然興味がないというか、非。反でなくて非、という、そういうところに関わらない生き方を、高校の頃から決めている。二十歳の時には、尾崎放哉とか、稲垣足穂みたいに生きていきたいと思っちゃった。この世からどれだけ逸脱して生きていくかっていう。そんな人間が、今この世を変えようなんてやっぱり思わないですよね」(映画パンフ『シュトルム・ウント・ドランクッ』2014年、14頁)。
(14)映画パンフ『シュトルム・ウント・ドランクッ』(2014年、15頁)。
(15)監督曰く「些細なことだけど、眼が違ってくるの」(映画パンフ『シュトルム・ウント・ドランクッ』2014年、15頁)。
(16)「常に戦場にあるの心を持って生き、ことに処す」。長岡藩の藩訓です。
(17)これは、後で調べると実際にあったことがわかった。古田大次郎の自伝『死の懺悔』(古田大次郎「死の懺悔」『ドキュメント日本人3 反逆者』学藝書林、1968年、81頁)の冒頭部に、『大正十三年九月十日の未明、電報の空声に叩き起こされて、のめのめと警視庁に引張られた村木君と僕とは、(略)』とある。逸見吉三の本によると、『てっきり西下中の倉地から・・・と思った』(逸見吉三『墓標なきアナキスト像』三一書房、1976年、159頁)と記してあり、古田が倉地啓司からの連絡と思い込んだとある。これは史実であるが、しかし、シナリオでは、古田「なんだい、こんな時間に」となっていて、倉地の連絡を待っていたとする史実は反映されたものでなく間抜け路線である。ここは古田「倉地かっ!」とでもしておれば観客へ古田の油断を理解させる救いがある。しかし映画とは別に古田の無用心さ杜撰さに腹立たしく思った。
(18)中浜役の寺十吾はインタビュー(映画パンフ『シュトルム・ウント・ドランクッ』2014年、11頁)で、「監督はなんか、違う、とかこうしてほしいとか極力言わない人というか、スタッフとかの打ち合わせ聞いていても「君はどう思う?」ってとこから始まって、なるべく自分から答えを出すことをせずに話して、でどういうふうになっていくんだろうね、今回こうなったね、ていうところに持っていきたい人だなって。」それを受けて、寺十吾は真剣に演出に取り組んだようで、松浦エミル役の中村榮美子は「じっちゃんの演出、こわいんですよ。」「雷すら落とすんですよ。」と、述べている。
(19)「演出なんかほとんどしていないからね。みんな好きにやっているから。だってそうじゃなきゃつまんないでしょ。「シュトルム・ウント・ドランクッ」っていうのは元々は、既成のものに対して反旗を翻すものなんだよ。演出家が偉そうなことを言っても駄目なの」(映画パンフ『シュトルム・ウント・ドランクッ』2014年、15頁)。
(20)『悪童日記』(2013年) 監督 ヤーノシュ・サース
(21)『大拳銃』(2008年)監督・脚本 大畑創 出演 小野孝弘、岡部尚、宮川ひろみ他 ストーリーは、潰れかけの鉄工所が舞台。不況で発注も何もなくて苦し紛れで手を出したのが銃の密造。しかし銃造りは所詮シロウト。何度もダメ出しされ、足元も見られて金もうまく入ってこない。けれども次第に銃造りに魅せられて行き、ついにとんでもない拳銃を作り出す。そういう追い詰められた者の眠っていた狂気/アナーキーが揺り動かされて、このままで終わらんぞみたいな感じがすごく良い。
(22)セリフ一つとってもその人物を生き生きと感じさせるものかどうかで異なってくる。例えば、古田と中浜の屋台でのやり取り。中浜「いくら気取ったって、しょうがないね」「俺には革命より、淫売あさりが合っているような気がする」(シナリオ『シュトルム・ウント・ドランクッ』4頁)と、中浜の韜晦気味のセリフであるが、後のセリフがあれば、前のくだり「いくら気取ったって・・・」はいらないことがわかるかと思う。おそらく自分に言い聞かせるためにということかもしれないが、その後、古田「弱音ですか、哲さん」、中浜「いやあ、ただな、真剣ってことはどこか滑稽でもあってね。」となるが、これでは中浜の韜晦の元になる葛藤が見えてはこない。にもかかわらず、中浜「おやじ最後の一杯」と、「最期」を予感させる言葉になり、そこで止めればいいのに、中浜「最後となると妙な気持ちになるね」と、心情の説明をさせるというクドさである。 テロリストが何に苦しみ悩むかということが構成されていない所からくるものと思われる。口直しに、『仁義なき戦い広島死闘篇』より、大友勝利(千葉真一)のセリフを挙げておく。
大友「なにが博奕打ちなら! 村岡が持っちょるホテルは何を売っちょるの、淫売じゃないの。いうなりゃ、あれらはおめこの汁で飯食うとるんど。のう、おやじさん、テキヤじゃろうと博奕打ちじゃろうとよ、わしらうまいもん喰ってよ、マブいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの」
ハードコアなセリフが、このセリフを発する人間がどういう人間か生き生きと伝わってくる。
(23)『元禄忠臣蔵』溝口健二監督は1941年(昭和16年)真山青果原作『元禄忠臣蔵』前後編を製作する。映画自体はいささか冗長で退屈にも思えるのだが、時代考証、美術が凄まじい。「デロリ」の画家甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に配し、行灯一つとっても、当時の絵図面から造形し、その極北は原寸大の松の廊下である。屋内でありながらその広さはストリートさながらの広大さで、映画を観ているのでなく、タイムスリップして実際の場面を目の当たりしているかのようである。しかしその反面、通常ならクライマックスになる討ち入りのシーンや、その他の忠臣蔵十八番の名場面がカットされているという異色さ。討ち入りシーンがないのは、実際に撮影されたが、監督曰くリアリティに欠けるということから没にしたと記憶するが、実際は、戦意高揚目的で造られた忠臣蔵映画自体へのサポタージュであるという見方もある。
(24)1980年代終わり頃に創刊されてまだ細々と不定期ででているらしいアナーキスト新聞。広島、大阪、東京など各地のアナーキストっぽいひとたちや、ベテランのアナーキストたちがかかわっていた。個人的に一番おもしろかったのは『ゲバタリアン』という4コマまんがだった。
(25)「アナキズムはヤクザな思想」を書いたのは乱狡太郎ではなくお友達の滓添君の方です。拙稿は、そのお隣の「アナキズム死すべし」という控えめなタイトルの方です。1989年7月7日発行の『自由意志』第7号に掲載されました。後で編集者の某氏より、お電話を頂き、たいそう怒られたり不快に思われている方々がおられると伺いましたが、なぜか反論の機会を与えていただき、そこで「アナキズムは二度死ぬ」というタイトルの原稿を書いたのですが、今度は編集者からも厳しいお叱りの電話を頂き、ついに原稿は没となりました。今から思うと反論ではなく、謝罪を表するものを要求されていたのを勘違いしたのかもしれません(笑)。
(26)エヴァンゲリオン・フリークの皆様つまらん引用してすみません。(27)ふと思い出したのは昭和天皇が瀕死状態の時、某反天事務所で店番してたら右翼から電話がかかってきて、いきなりダミ声で君が代を歌った後、「お前ら自分のお父さんが病気で苦しんでいる時に悪口や批判するのか!」とどなってきた。で、「ボクはするかもしれんけど」と返すと「なんじぁゴルァ!!」「お前ら共産党か!」と聞いてきたので、「いえちがいます。共産主義は大嫌いです」というと、「なんや違うのか…」と妙にトーンダウンして終わりました。
(28)スメルジャコフは『カラーマゾフの兄弟』の闇キャラ。父親への憎悪を体現する人物。最終的には父親殺しに手を染める。
(29)大阪の某所で某アナキズム研究会に参加していた時、そこに向井さんがやってきた。向井さんは、それまで運動関係の実行委員会や集会では見知っていたけど、アナ関係では初めて顔を合わす機会となりました。ところが意外にもいつものソフトな人当たりの良い感じとは違っていて、構えた感じで「こんな集まりを散々見てきたがすぐに潰れたな」とか、「路上生活者が身奇麗にしている」などともってまわったエピソードを語りつつ、要は、お前らアナーキズムとか言っているが輩の類ちがうんか、分別をわきまえろよ的な物言いだった。このファーストコンタクトの裏表の落差と、その「裏」を補強するようないくつかのエピソードから僕の向井さんイメージは構成されています。ところが巷では、向井さんは「相田みつを」みたいな好かれぶりです。驚きましたね。
(30)高橋巌「社会思想研究・評論の知的営為における「二重性」に関する試論―大沢(大澤)正道の論考を手がかりに―」『アナキズム』11号、2008年、171~ 202頁。
(31)秋山清は、戦時中、高村光太郎の戦争詩を厳しく批判したという、しかも、批判された光太郎が返信で、発表していない詩もあるとか言い訳すると、激怒し、「戦中は戦争詩人、戦後は民主主義詩人であり得た日本の詩人の転向の揚げ底的浅薄さ」を徹底的に批判したそうです。偽装転向など断じて認めん!ってさすが。「アナキスト詩人秋山清」ジージはある日、世界に吼えたhttp://ji-ji-wanwan.seesaa.net/article/134488127.html(2017年8月30日閲覧)
(32)秋山清は、転向研究で取り上げたのは岩佐作太郎と萩原恭次郎である。岩佐については、その著書『国家論大綱』(1937年)を俎上に上げて、国家、天皇制、権力を否定するアナーキストが如何にそれらを容認するに到ったかを、岩佐の思想の変遷に触れつつ論述している。まあ簡単に言えば、元々岩佐は前近代的な観念論者であり、「科学的」な「革命思想」でなかったのだと、だから『国家論大綱』で「自然生成的国家観」などという右翼と変わらない主張に陥ってしまった。しかもそれは岩佐のみならず、「観念論的暴力主義的な、わが国の昭和アナキストおよびアナキズム運動内部にひろく存在した」と言ってはります。萩原の方は、アナキスト詩人が如何にファシスト詩人になったかを、1938年に発表された『亜細亜に巨人あり』という詩作を取り上げ批判しています。その転向の原因として挙げているのは、やはり観念論で、萩原が都市から郷里の農村に引き揚げて以降、権藤成卿の『自治民範』『君民共治論』『農村自救論』などにはまり、天皇と民族一体の「尊王攘夷」論者となったと。秋山は、「明治以来の歴史の中で悪戦苦闘した先進アナキストの人間の内部にも消化しきれなかった日本人の封建的な前近代性がここに暴露したということもできるし、科学的思考と現実とに立ち、階級の対立と闘争の論理の組立を怠ったばかりか、アナキズムの重大な基礎である自我の確立拡充という個人的人間性の解放にもおくれていたことが、第二次大戦への国家的傾斜の中に、いち早く運動全体が、崩壊し去らざるを得なかった理由なのである。」と結論付けてます。思想の科学研究会編『共同研究転向4』戦中篇下 平凡社 2012年、303~360頁)。
(33)秋山清の戦時中のお仕事については初出は「三バカの反アナーキズム対談」『アナキズム』第8号(2006年)の「一、奥崎さんについて」の注 25(158頁)でも触れています。ここではもう一つの翼賛書籍『チークの話』(木材経済研究所、1943年)から引用しておきましょう。なんでチークなのか?秋山もとい高山氏は、「吾が国はまさに太平洋の制壓を終わらんとしてゐる、やがて印度洋全體をも共榮圏の一部とするを覺悟せねばならぬであらう。この時もっとも重要なるものが船であることは言を俟たない。しかし南太平洋及び南方諸島の廣い地域を共榮の軌道に乗せて指導せんとするならば、尨大な船舶の建造と相俟つて、此処にチーク材の意義ある用途が開けねばならないのである。」しかし、これまではアングロサクソンやオランダに「奪取利用」されてきた。それがようやく東亞共榮圏の確立によって」全面的に利用せられる…」だそうで(同書 5頁)。僕が、秋山氏の戦時中の活動について知ったのは、櫻本富雄『探書遍歴』からですが、櫻本氏は、「とんでもないアナーキストである」と酷評されておられます。しかしこの時のペンネームは「高山慶太郎」ですから、秋山清は、戦時中は「筆を折った」が、高山慶太郎は違うということですかね、筆は二本あったというわけです。用意いいですね(笑)
(34)「ほんとうに介山はニヒリストであったのか」「この現世にたいして人並み以上に執着が濃く見える男のどこにニヒリズムがあるのか」と秋山は疑惑を持って、「小説にだまくらかされてはいけない」と自分にいい聞かせつつ、「改めて年久しく以前に読んだ『大菩薩峠』を反芻する必要に迫られる」と言っています。(「中里介山とニヒリズム」秋山清『わが心のバック・ミュージック』青娥書房 1974年、185頁)。そしてアナーキズム界の平塚八兵衛もどきの転向捜査のエキスパートは捜査を開始するのです。 (35)「挿画は画家の作に非ず、本文の複製なり、その著作権は本文作者にあり」と介山は主張し、画集の出版社と石井鶴三を訴え、以後十年に渡る訴訟となったようです。この件については装丁家大貫伸樹のブログで鶴三の挿絵と共に触れています。(http://d.hatena.ne.jp/shinju-oonuki/20080411)(2017年8月30日閲覧)
(36)秋山のいやらしさは、執拗な介山へのネガティヴ・キャンペーンである。介山の言い分にも少し理解を示すような記述もある。しかしそれはさらに落すため準備動作に過ぎない。「介山はそれを(常識が如何にこの事を判断するであろうかを)知らずして、こんなイチャモンをつけたのであろうか。」「彼介山は何故にこのようないいがかりをつけたのであろうか。」「ここに問題を提起した介山は、世間的常識的には如何にも欲張りの如くにさえ見える。」「欲張りで業つくばりなその彼の姿を。」最初は問いかけるような物言いをしながら印象操作をして行き、最終的に強欲な人間だと断じてから、こんな中里介山はニヒリストですかい?ともって行くのである。それだけでは足らぬとおもったのか、ニヒリストの典型として辻潤を引っ張り出し、辻潤には「夢がなかった」、介山は「現世への批判、夢、ユートピア感がある」、そもそも「大菩薩峠」など大長編を書く者がなんでニヒリストかという始末である。ニヒリストでない介山は何者なのか、「私は介山その人の思想は、ニヒリズムよりも、いうなればむしろナショナリズムであるかの如くに受け取ってきた。」というのが結論である。一連の批判から見えるのは、秋山清の嫉妬、小物感である。ニヒリズムに引かれながらも、行動、存在においては辻潤のニヒリズムを恐れ、作家としては到底介山におよばない残念すぎる秋山清の姿である。しかし、付言するなら辻潤はニヒリストではあろうが、それに収まる存在ではないし、中里介山の「大菩薩峠」に対する評価も秋山はニヒリスト小説かどうかに拘泥するあまりに捉え損なっている。ここで連想されるのは連赤永田洋子である。同志へのコンプレックス、嫉妬をイデオロギーの形に変えて批判、断罪し、ついには死に至らしめた姿である。永田との類比がキツイというなら、人格攻撃でその人の表現や行動の価値を貶める昨今の安倍や菅の手口に似ていると言って良い。(秋山清、同上書、185~190頁)
(37)秋山清「二つのこと」『現代日本思想体系第16巻』月報5、1963年10月。秋山清「アナーキー・アナキズム」『秋山清著作集4』ぱる出版、2001年、83~94頁(初出は1964年)。秋山さんは「説明し弁明することはもう煩わしい」と書いています。
(38)「アナがボルの出現、その対立、抗争を意識することにおいて、皮肉にも、そして無残にも、アナ自体が否定するボルに似た運動路線をいつしかなぞり、かえってボル的にならざるをえなかった」「「憎み合うものは似る」とはこのことだ」。「アナ運動は[中略]やはり昭和の戦前も、ぼくにとっての戦後も、社会「主義」運動の立場でありつづけたのが事実である。/その最大の理由は、ソ連を背景とするボル運動へのアンチテーゼとして、ボルと異なることにおいての社会主義運動(革命)を提起しようとせざるをえなかったことだろう」(向井考『アナキストたち〈無名〉の人びと』「黒」刊行同人、2005年、230~ 231頁)。
(39)1904年、指揮官アゼーフ、サブにサヴィンコフ率いるエスエル戦闘団は、ロシア帝国皇帝ニコライニ世の叔父セルゲイ大公暗殺計画を実行する。第一投弾者カリャーエフは、大公の馬車を待ち伏せする。失敗したら、「降参せず日本人のようにハラキリする」覚悟でテロに臨んだカリャーエフであったが、爆弾片手に駆け寄った瞬間、彼は大公の他に大公妃と小さな甥と姪が同乗しているのを確認し、爆弾を投擲せずに終わった。仲間のところへ戻った時、「ぼくの行動は正しかったと思う。子供を殺すことができるだろうか?」と述べたとされる。川崎浹「サヴィンコフ= ロープシン論」『蒼ざめた馬』 (岩波書店、1990年、231頁)
(40)真面目なアナーキスト古田大次郎はこう言ってます。「大杉君は、監獄も僕たちの別荘だと言った。真面目で言った言葉ではあるまい。皮肉った言葉であることはもちろんだろう。それを真面目に解釈して四角四面に言うのではないが、僕はいやしくも社会運動家ともあろうものが、監獄に行くのにまるで別荘に遊びにでも行くように思うのは、間違った話だと思う。[中略]監獄へ遊び半分の気持ちで行くのは、呑気にあらざれば不真面目きわまるものである。監獄へは死ぬ覚悟ではいるべきである。殺されるつもりで行くべきである」(古田大次郎「死の懺悔」『ドキュメント日本人3 反逆者』学藝書林、1968年、89~90頁)。こういう真面目さが、誤って人を殺しても「愛のため」と平気でうそぶいていられることになる。
(41)「[三バカ座談]今こそ辻潤でしょ!~ベジタリアン▼アニマルリベレーション▲アナーキズム映画▼網に置いた犬のうんこは喰ってまえ!」『アナキズム』18号、118~165頁。
(42)「余白が好きなのよ。自分は台本に無いものを見たい。その人たちをそこから、その役の彼らをどうするかっていうのが見たい。とんでもないことやってくれたり、その後どう見せるかが全部。そこが余白なんだよ。余白の撮りようがその人物像を確かなものにしていく。自分はそういうタイプ」(映画パンフ『シュトルム・ウント・ドランクッ』2014年)。
(43)新撰組は、幕末に倒幕派のテロリストを制圧するために作られた特殊警察。『局中法度』という隊規を作って、厳しく内部統制を図ったことでも有名です。但し、『局中法度』という名称や、規則の項目については、後世の作家の創作も含まれているとも言われていますが、正に鉄の規律の典型です。
新撰組『局中法度』
一、士道ニ背ク間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許 右ノ条々相背候者 切腹申付ベク候也
(歴史館http://www.geocities.jp/str_homepage/rekishi/bakumatsu/shinsengumi/kaisetsu/hatto.html)
(44)2006年公開。監督 ケン・ローチ。
(45)1933年、二見敏雄、相沢尚夫、 植村諦らが「暴動」(?)を起こすために結成した秘密結社。1935年11月に一斉検挙で壊滅。メンバーには規約厳守が強制され、個人の自由、自由連合といったアナーキズムの原則は放棄された。「二見が東京から金を持ってピストルを買いにきている。何かやる気だ、と二、三の者にしゃべっている」という理由で、また、おそらくは「秘密を漏らした者は死刑に処す」という規約に従い、メンバーの芝原淳三(1902~1935)を摩耶山で「スパイ」として射殺した。「「芝原、おまえはスパイだから処分する」「スパイ、スパイとは何だ、ふざけるな」「オレが神戸に来たことを誰にも云うなと云っておいたのに、しゃべったろう」/芝原は沈黙した。そして「うん、それは悪かった」と素直にみとめた[中略]」二見は二ど目の引き金をひいた。銃声が秋晴れの山にこだました。/二発三発、芝原の胸から血が流れたと思うと彼は前へ崩れるように倒れた」(向井考『アナキストたち<無名>の人びと』43~50頁)。
(46)日本無政府共産党の規約の該当部分を掲載しておきます。
第九章 規 律
第十八条 故意に党の秘密を漏洩したる者は死刑に処す。
第十九条 前条は中央執行委員会の決議に依り特務機関之を行ふ。
第二十条 上級の命令は必ず実行すべし。之に反する者は査問会に附せられるべし。
第二十一条 前項第二項は中央執行委員会又は地方委員会の決議により中央執行委員会の決議承認を得るを要す。
第二十二条 第二十条第二項の執行は特務機関之を行ふ。
(相沢尚夫他『日本無政府共産党』海燕書房、1974年、128頁)
(47)逸見吉三「和田久と生活者のアナキズム」『墓標なきアナキスト像』三一書房、1976年、181~182頁。
(48)リーマン・ブラザーズ・ホールディング最高経営責任者(CEO)リチャード・S・ファルド・ジュニア
(49)言うまでもなく、ヒクソン・グレーシーの最強伝説の称号です。しかし、これは初代タイガーマスクの佐山聡がつけたコピーらしいです。ヒクソン自身は、アマチュア、ストリートファイトを含めた数とは言っていますから、400かどうかは別にして、強かったことは確かでしょう。
(50)バクーニンのイメージは、シェイクスピアが産み出した、大兵肥満の老騎士、臆病者にして強欲、狡猾で好色漢だが、機知に富み憎めない「サー・ジョン・フォルスタッフ」が第一に浮かぶ。あるいはフランソワ・ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』の、超大食漢の暴走大巨人の「ガルガンチュア」が次点かなと思っていたら、バクーニンの地元ロシアにも、ちゃんと強きをくじき弱きを助ける義侠の勇士イリヤー・ムローメツの活躍が、口承叙事詩(ブィーリナ)の形で民衆の中で語り継がれていたようです。バクーニンもそういった基層にあるアーキタイプを具現化した人物として受け止められたのでしょうか。(中村喜和『ロシア英雄物語』平凡社、1994年、筒井康隆『イリア・ムロウメツ』講談社、1985年)
(51)「この男は肩幅は広かったが、何か虚弱そうだった。髪を短く切り、殆ど丸顔といえる顔に、ただ眼だけがひとの注意をひいた。黒い小さな眼が何でも貫き通すかのように鉱物の光で輝いていた。何のアクセントもない顔だが、何かひとの眼を離させないものがあった。その上、探るような、冷ややかな態度で討論を注意深く聞いていたが、自分から発言する気は全然ないらしく、とうとう彼が出て行くまで誰もその声を聞かなかった。こうした態度が学生達の好奇心を大いにそそった。」(ルネ・カナック『ネチャーエフ』現代思潮社、1964年、31頁)。1868年10月のある晩、ペテルブルクスカヤ・ストローナのサークルにおけるセルゲイ・ネチャーエフである。ここに後にバクーニンをも魅了することになったもう一人の「眼の男」が登場したのである。
(52)1867年 9月10日ジュネーブで開催された「平和と自由同盟」第一回大会二日目前日同様バクーニンが姿を見せただけで、巨大な会議場の六〇〇〇人の参加者は、興奮にうずまく、「大会の会議における彼のきわめて劇的効果のある登場を、私ははっきりとおぼえている。いつものようにルパーシカではなくフランネルの胴着が下からのぞいている灰色の長い上っ張りを、だらしなく着こみ、重々しく不恰好な足どりで、大テーブルのおかれた演壇の方へ通じる階段を彼がのぼっていくと、《バクーニン!》というかけ声が方々から響き渡った。議長のひじかけ椅子に腰かけていたガリバルディが、つと立ち上がって、バクーニンの方に近づいていき、彼を強く抱擁した。この二人の試練に耐えてきた革命の老闘士の出会いは、実に劇的な光景であった。大ホールでは、彼らの反対者もすくなくはなかったのに、一同が皆いっせいに起立して、いつまでも嵐のような拍手を両人に送っていた。バクーニンはすばらしい演説をし、いつものように大きな成功を生み出した。・・・大聴衆に語りかける彼のうまさは完璧なものであり、なによりもすばらしかったのは、彼がそれぞれの国のことばでもって、実に説得力のある演説をしたことであった。その堂々たる容姿、エネルギッシュな身ぶり手ぶり、誠実で確信に満ちた口調、斧で断ち切ったようなことば遣い─これらすべてが、強い感銘を与えたのであった」(記述者:ヴィルーポフ)(勝田吉太郎『バクーニン』講談社1979年、175頁)。
(53)2001年6月26日、小泉内閣の経済財政諮問会議が作成した「骨太の方針」には、冒頭に「新しい成長産業・商品が不断に登場する経済の絶え間ない動きを『創造的破壊』と呼びます。創造的破壊を通して、効率性の低い部門から効率性や社会的ニーズの高い成長部門へヒトと資源を移動します。これが経済成長の源泉です。創造的破壊としての聖域なき構造改革は、その過程で痛みを伴うこともありますが、構造改革なくして真の景気回復、すなわち持続的成長はありません。」とある。この方針下、長きに渡って人々が新自由主義の創造なき破壊に苦しめられることになるのである。
(54)演劇『コースト・オブ・ユートピア―ユートピアの岸へ』は、プリャムーヒノなどを舞台にして、バクーニン、ゲルツェン、オガリョーフ、スタンケヴィッチ、ツルゲーネフ、そしてバクーニンの姉妹たちが演じる、哲学・政治・革命・恋愛などなどをめぐる三部にわたるドラマ。トム・ストッパード脚本でロンドン(2002年)、ニューヨーク(2006年)、モスクワ(2007年)で上演され、数々の賞を受賞。日本では、2009年に蜷川幸雄が演出、バクーニンを勝村政信、ゲルツェンを阿部寛、ツルゲーネフを別所哲也、バクーニンの姉リューヴォフを水野美紀が演じて渋谷Bunkamura シアター・コクーンで一ヶ月間上演されました。以上、ウィキ情報および「Bunkamura 20周年記念特別企画 コースト・オブ・ユートピア―ユートピアの岸へ」のサイト、観劇の感想についてのブログなども参照しました。台本は以下で見ることができます。トム・ストッパード、広田敦郎訳『トム・ストッパード(1)コースト・オブ・ユートピア―ユートピアの岸へ』早川書房、2010年。
阿部寛 アレクサンドル・ゲルツェン(思想家)
勝村政信 ミハイル・バクーニン(バクーニン家の長男。革命家)
石丸幹二 ニコライ・オガリョーフ(詩人、ジャーナリスト)
池内博之 ヴィッサリオン・ベリンスキー(文芸批評家)
別所哲也 イワン・ツルゲーネフ(作家)
長谷川博己 ニコライ・スタンケーヴィチ(哲学者)
紺野まひる リュボーフィ(バクーニン家の長女)
京野ことみ ヴァレンカ(バクーニン家の次女)
美波 タチヤーナ(バクーニン家の三女)
高橋真唯 アレクサンドラ(バクーニン家の四女)
佐藤江梨子 ナタリー・バイエル(バイエル夫人の娘)
水野美紀 ナタリー・ゲルツェン(ゲルツェンの妻)
栗山千明 ナターシャ・オガリョーフ(オガリョーフの妻)
とよた真帆 エマ・ヘルヴェーク(ヘルヴェークの妻)
大森博史 ニコライ・ポレヴォーイ(「テレグラフ」誌の編集長)
松尾敏伸 ゲオルク・ヘルヴェーク(急進派のドイツ人詩人)
大石継太 ニコライ・サゾーノフ(ゲルツェンのサークル)
横田栄司 ニコライ・ケッチェル(ゲルツェンのサークル)
銀粉蝶 バイエル夫人/マダム・ハーグ(ゲルツェンの母親)
毬谷友子 メアリー・サザーランド(オガリョーフの愛人)
瑳川哲朗 アレクサンドル・バクーニン(バクーニン家の家長)
麻実れい ヴァルヴァーラ(アレクサンドルの妻)
(55) Allan Antliff, 'About this issue' s cover' ,in: Anarchist Studies, Vol.22, No2, 2014, pp.6-7. 以下を参照。https://www.lwbooks.co.uk/anarchist-studies/22-2/cover-info 図1は以下を参照:http://partidoanarquistainternacional.blogspot.jp/2014/07/bakunin-nos-inqueritos-policiais-no.html
(56)勝田吉太郎は留学生時代、大英博物館附属図書館で『国家性とアナーキー』と出会い、むさぼるように読む。「無秩序といえばまことに無秩序な、このバクーニンの主著の一つを丹念に読んでいくうち、ところどころ閃光のようにきらめく鋭いマルクス批判に出くわし、私はしばしノートをとるのを忘れて、ただ惘然と息を呑む思いがしたものだった。それはご多分にもれずにマルクス一辺倒の学生時代を過ごした私にとって、まるで脳天を一撃されたような経験であった。」(勝田吉太郎『バクーニン』講談社1979年、2頁)。
(57)「あの当時[中略]まわりの友だち連中全部共産党に入るわけや。[中略]まるで共産党でなければ人にあらずみたいな、戦争中の軍部みたいな感じの時期がある。/それから戦中に特高でちょっとぼくをいじめたやつがおった。姫路署に。それはやっぱりパージで辞めたんだと思うけど、豚屋をやりながら共産党に入った。そしてけっこう、共産党員としてまじめにやっているように見えた。[中略]ぼくはその特高、戦争中ね、おのれー、なんかあったらグサッと突き刺したろ、くらいの恨みはあった。それも、だんだん日がたつとそういうこと忘れたけどね、やっぱし、不倶戴天や。少なくともあいつがおるようなところにはおれは入る気はない、いうこと。[中略]まあ、それやこれやで共産党に入らないところへ、アナ連ができたという新聞記事を見た、ああ、こんなもんもあったなあ、いうところやね」(向井考「<やり方>としてのアナキズム」『暴力論ノート 非暴力直接行動とは何か 増補版』「黒」刊行同人、2011年、114~115頁)。
(58)「「イオム」の同人として参加するに当って軍隊生活の長かったこと、そして現在は神戸大丸で保安部員として勤めていることなどを話した。向井氏は「己の過去の罪は永久に消えることはない。ただその重荷を背負って歩いていくしかない」と言ってくれた。わたしは戦争犯罪については、いかに己が下層の軍人でしかなかったとしても一級戦犯という一部の人達に責任を負わせて事足れりとすることはできないと考えていた。そしてわたし自身あまりにも国の権力に頼りすぎ生かされてきたという反省があった。自ら考え、自ら判断し自らが選んだ己の道を切り開くべき思想がなかったと思った。従って現在の職業である保安関係の仕事から早く足を洗うべきであると考えた。そして昭和二三年一一月に神戸大丸を退職した」(高島洋「わが愚かなる半生―生かされて過ちを犯すより自分の意志で生きること―」『高島洋追悼録―わが愚かなる半生』高島洋追悼録刊行会、1998年、130~132頁参照。同追悼録所収の向井考「高島洋の死」199~201頁も参照)。
(59)日本の火刑の一種。罪人に麦わらの蓑を着せ、火をつける。苦しんで跳ね回るのが踊るようだったという。(井上和夫『残酷の日本史』光文社、1969年、93頁)。
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